「カンテラ日誌」の廃棄処分,それはないでしょう
8月10日の毎日新聞に,科学環境部の荒木涼子記者による「富士山頂日誌を廃棄/68年間つづった40冊/専門家『一級の資料』」なる見出しを持つ記事が掲載された.1932年に開設された臨時富士山頂測候所が,その後長年使用されることになる富士山頂の最高地点に移設された1936年から2004年まで,代々の職員が書いた日誌が廃棄されていたとの記事である.荒木記者は,今年3月24日に「富士山頂日誌不明/測候所で68年,台風も戦争も」の見出しを持つ記事を書いていた.今回の記事は,これをフォローしたものである.

気象庁で長年観測に携わり,富士山測候所にも勤務した志崎大策氏の『富士山測候所物語』(成山堂,気象ブックス012,2002)によると,高山での観測の重要性は古くから指摘され,気象庁が公式に観測を始めるまで,富士山においても多くの試みが行われてきた.公式に測候所が設置され,観測が始まったのは1932(昭和7)年7月1日であった.「臨時富士山頂測候所」と名付けられていたが,山頂よりも数十メートル低い「東安河原」であった.当初は1年間の予定であったが,民間からの資金提供の申し出があり継続されることになる.その後,東安河原は地下から噴気が出ることから,1936(昭和11)年8月からは,3776メートルの「剣が峰」に移り,名前からも「臨時」が取れた(1950年に「富士山測候所」と再改称).

さて,この測候所では,1932年当初より中央気象台岡田武松台長の指示による「観測者心得」があった.「当番」,「発電」と続き「雑則」まで,9項目についての指示である.最初の「当番」の項は,「観測要素のほか毎日日誌を記すべし.日誌は,その日の当番者これを記すべし…(以下略)」(38ページ)であった.すなわち,日誌を書くことは,‘業務命令に近いもの’であった.この日誌は「カンテラ日誌」と呼ばれた.カンテラとは,石油を用いた携帯ランプのことである.観測初日である1932年7月1日の日誌の文面は,「昭和七年七月一日朝六時,風は穏やかであるが前夜からの雪が降り続いている.視程は霧のため一〇〇メートル,気温はマイナス〇・三℃,ロビンソン風速計の軸には南南西の方向に一センチメートルの着氷」(2ページ)であった.

この日誌は2004(平成16)年に測候所が廃止されて以来,東京管区気象台の管理下に置かれたが,昨年11月以降に溶解処分された.荒木記者の記事によると,「毎日の出来事や感想を個人的に書き留めたもの.職務ではなく,行政文書にあたらない」と気象台は説明したという.次の日の同紙「余禄」でもこの「処分事件」を取り上げ,「気象台も少しは先人に敬意を払ってはどうか」と結んだ.私もまったく同感である.それにしても,せめて電子画像化を誰も思いつかなかったのですかね.


2018年8月20日記


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