exerciseを超えた研究を
現在私は,「南極の氷床と海」と「Hotspot2」の2つの新学術領域研究のアドバイザーになっている.年度末になり,今年度の年次報告会と運営委員会が開催される時期となったが,なんと3月17日から19日の3日間と,2つとも同じ日程で開催されることが分かった.さらに,17日にはこれらと別の会合が既に予定されていた.どう対処するかであるが,幸いすべての会合はオンライン方式であるので,3つの会合に1日ずつ参加することで了承を得た.

アドバイザーは参加者の成果発表を聞いて質問やコメントをしたり,リーダーの人たちから各班の進捗状況の報告を受けて,プログラム全体の運営についてアドバイスしたりするのが役目である.しかし,18日に参加する「Hotspot2」では、一部しか聞けないこともあり,何かメッセージを伝えられないか,事前に考えておくこととした.それが「exerciseを超えた研究を」と題する話である.私がこの話で伝えたかった大要を以下に示したい.

随分前のことでどの論文かも忘れているのだが,海外の雑誌に論文を投稿したところ,査読者からこの研究は‘exercise’のようだと評された.exercise(演習),すなわち,既に手本となるものの見方や解析手法があり,それらを単に対象を代えて適用したに過ぎないのではないか,という指摘である.もちろん,改訂稿の提出時には,この研究はかれこれこういう意義があり,これまでとは異なる視点で解析した結果をまとめたもので,指摘は当たらないと反論した(と思う).ともあれ,研究へのexerciseという評価の表現に出会い,いろいろと考えさせられた.

研究にもいろいろなスタイルの研究がある.化学や材料科学の分野では,同じ分析手法でも異なる物質や材料でありさえすれば研究になるという.私たちの分野でも同じ視点・解析手法で,地域や対象,あるいはデータの種類を代えれば研究が成立することがある.例えば,太平洋を対象とした解析が成功したので,同じ解析を大西洋に適用するような研究である.もちろん,これも立派な研究には違いなく,論文にもなるし,したがって業績にもなる.サイエンスを前に進めるうえでも経なければならない研究であり価値がないことではない.しかし,ただ単に,同じ見方・解析の適用だけでその研究を終えるのなら,それはやはりexerciseと評されても仕方ないのではなかろうか.

経験を積んでくると,どのような結論が得られると論文になるかなど,先が読めるようになる.そして,その結論を得るためには過去に行われてきたこのアプローチが有効などの判断もできるようになる.私たちは多くの場合そのような立場で進めるのであるが,それだけでもって良とするのではなく,常にそれを乗り越えることができないかと努力すべきではなかろうか.まさに皆さん,‘exerciseを超えた研究を’である.

2021年3月20日記