324
著者 野家 啓一(のえ けいいち:東北大学・名誉教授,元理事・副学長,専門は科学哲学),解説 宮坂 和男(みやさか かずお:広島修道大学・教授,専門は哲学・倫理学)
書名 3・11以後の科学・技術・社会
出版社等 河合出版,河合ブックレット41,2021年1月30日,101ページ
一言紹介 2019年5月12日に河合塾福岡校で行われた本書表題と同じ題名の講演の記録.質疑応答と宮坂氏による解説も収められた.内容は,「Ⅰ 物理学から科学哲学へ」「Ⅱ 科学とは何か」「Ⅲ 科学技術とどう付き合うか」の3部構成.Ⅰでは著者が物理学から科学哲学へ道を変えた理由が,時代背景とともに述べられる.Ⅱでは科学・科学者・科学技術について,現代科学成立の歴史をたどりながら説明される.Ⅲは本書の中心で,科学と社会の関係の中に存在する課題とその克服について,3・11の出来事を踏まえて解説される.現在は「トランスサイエンスの時代」であるとし,「科学なしでは解決できないが,科学だけでも解決できない課題」が山積している.そのため著者は倫理規範として「RISK」を提唱する.「信頼性」,「世代間倫理」,「社会的説明責任」,「知識の製造物責任」である.英単語の頭文字がRISKとなる.私は著者のこの提案に大いに納得する.
(2021年3月)

323
著者 橋爪 大三郎(はしづめ だいさぶろう:大学院大学至善館・教授,専門は社会学,東京工業大学・名誉教授)
書名 人間にとって教養とは何か
出版社等 SBクリエイティブ,SB新書(530),2021年1月15日,258ページ
一言紹介 このコロナ禍の中,ZOOMを利用しての「語り下ろし」に手を加えたもの.したがって,全編「です・ます体」で,目の前で語りかけられている感じがする.内容はとても明解.以下,印象に残ったフレーズを紹介する.「教養とは,『これまで人間が考えてきたことのすべて』」.「教わるのは知識で,自分で獲得するのが教養」.したがって「教養は学校では身につけることができない」.「教養の有無が,人生の質を決める」.「本はすべての学びの基本」,その本は古典に限る.古典とは,「あることを最初に考えた人が書いた本」.「時間にさらされて古典になる」.英語(外国語)を学ぶ意義は,コミュニケーションをとるためでなく,「母国語の(思考の)枠組みから飛び出すため」とする.すなわち,日本語と英語の考え方の違いが思考を豊かにする.この本は,吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」を強く意識したものとなっている.合わせて読んでほしい.
(2021年3月)

322
著者 砂原 浩太朗(すなはら こうたろう:フリーのライター・編集・校正者を経て作家)
書名 高瀬庄左衛門御留書(たかせしょうざえもんおとめがき)
出版社等 講談社,2021年1月18日,335ページ,最初の章「おくれ毛」は小説現代2018年8月号に初出,残りの9章は書下ろし
一言紹介 10万石の小藩神山藩で郡方をしている高瀬家は50石という小禄.庄左衛門は家督を息子啓一郎に譲り,絵を描いたり,釣りをしたりの隠居生活.郷村廻りに出た啓一郎は,豪雨の日,崖から足を滑らせ命を落とす.残された庄左衛門は啓一郎の嫁志穂を親元に返し,郡方に復帰する.親元に帰った志穂は絵を習いたいと弟と共に庄左衛門宅に頻繁に通うようになる.そのため藩内では庄左衛門と志穂のあらぬ噂が流れる.そのような折,藩内に農民衆による一揆の噂が流れる.調べ始めると,そこには藩政を覆す大きな陰謀があった.実は,息子啓一郎もその陰謀に巻き込まれ殺されたのだった.その陰謀には,昔道場で庄左衛門と剣の技を競った男が加担していた.藤沢周平作品を彷彿とさせる時代小説であり,悲劇の中にも救われる状況がある.この後,庄左衛門と志穂はどうなるのか,著者にはぜひとも続編を書いてほしい.
(2021年3月)

321
著者 塩野 七生(しおの ななみ:イタリア在住の歴史エッセイスト)
書名 小説イタリア・ルネサンス 1 ヴェネツィア/2 フィレンツェ/3 ローマ/4 再び,ヴェネツィア
出版社等 新潮社,新潮文庫(し-12-21/22/23/24),2020年10月1日/11月1日/12月1日/2021年1月1日,385/374/291/495ページ
一言紹介 1~3は,朝日新聞社から出版された『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』(1993年),『銀色のフィレンツェ メディチ家殺人事件』(1993年),『黄金のローマ 法王庁殺人事件』(1995年)を改題の上,大幅改稿したもの.4は書下ろし.ヴェネツィアの名家ダンドロ家のマルコと,その愛人で高級娼婦のオリンピアの物語.16世紀のイタリアはルネサンスの絶頂期であったが,東にスレイマン大帝が統治し西へ覇権を伸ばしたいトルコ帝国,西にはフェリペⅡ世が統治するスペイン王国が控えていた.2つの超大国には挟まれたヴェネツィアの外交は難しい.30代より‘貴族の義務’として十人委員会に属したマルコは,ヴェネツィアのために献身的に働く.マルコとオリンピアは創作上の人物であるが,登場人物の多くは実在者で,史実にも従っている.著者は,ヴェネツィアの長期繁栄の陰にはマルコのような国を愛し献身的に行動した人物がいたことを想い,この小説を書いたのだろう.
(2021年2月)

320
著者 チュアート・D・ゴールドマン(Stuart D. Goldman:全米ユーラシア・東ヨーロッパ研究評議会・在外教授,専門はロシア・ユーラシア地域の政治史・軍事史),山岡 由美訳,麻田 雅文解説
書名 ノモンハン1939 第二次世界大戦の知られざる始点
出版社等 みすず書房,2013年12月25日,312ページ+19ページの索引
一言紹介 1939年5月から3か月間,モンゴルと満州の国境を巡り関東軍とソ連赤軍が激闘を繰り広げた‘ノモンハン事件’(‘ハルハ河の会戦’)を,世界史の中に位置付ける.著者は副題にあるように,両軍の衝突は限定的であったものの,第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線と太平洋戦線)へと向かう重要な出来事であったとする.当時,ソ連のスターリンはドイツのヒトラーやイギリスのチェンバレンらと,ドイツのポーランド侵攻を前に虚々実々の駆け引きを行っていた.スターリンは関東軍を徹底的に叩くことを決意し,実際事態はそうなっていく.関東軍への勝利を確信するやドイツとの同盟関係を結ぶも,赤軍の主力を西側へと移し,ゆくゆくはやってくるドイツの侵攻に備えた.ノモンハン事件が第二次世界大戦の重要な始点とする著者の見方は,目から鱗が落ちる思いであった.著者は,当時の関東軍や日本陸軍は辻政信などの中堅による「下克上」の有様だったと喝破する.
(2021年2月)

319
著者 井上 ひさし(いのうえ ひさし:小説家・劇作家,故人,1934-2010)
書名 井上ひさしの日本語相談
出版社等 朝日新聞社,朝日文庫(い8-5),2020年11月30日,313ページ,初出は週刊朝日1986年8月8日号から1992年5月29日号,その後4人共著として同社から単行本や他社での文庫本刊行などを経て,同社から単著として2002年に刊行された
一言紹介 1986年,『週刊朝日』に大野晋,丸谷才一,大岡信,著者の4人による「日本語相談」の連載が始まった.この欄は大人気となり,1992年まで6年も続く.本書は,著者が担当した58の回答と,4人の対談を収めたもの.読者からの日本語に関する質問を受け,それに対して著者の考えを述べるという形式.最初の3つの質問の表題を挙げれば,「ことわざ・格言は古臭いか」「親切過剰の掲示の不思議」「二ホン,ニッポン,どっち?」というもの.本書の解説は国語辞典編纂者の飯間浩明氏.著者の日本語に対する姿勢を同氏は,「井上さんの回答の特徴は,ことばを自分の目で見ていること,しかも,温かなまなざしで見ている」とし,「井上さんの回答のなかに『このことばはダメ』『この言い回しはまちがい』という表現が見当たらないのは,ことばを自分の仲間のように考え,人格を認めているから」と結ぶ.私は飯間さんの解説に全く同意する.
(2021年2月)

318
著者 千葉 聡(ちば さとし:東北大学東北アジア研究センター・教授,専門は進化生物学・生態学)
書名 進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語
出版社等 講談社,ブルーバックスB-2125,2020年2月20日,262ページ,同社PR誌『本』連載の「進化学者のワンダーランド」(2019年1~12月号)をもとに再構成し,加筆・修正を加えたもの
一言紹介 毎日出版文化賞を受賞した『歌うカタツムリ』(岩波科学ライブラリー,2017年)に続く書.長くなるが,まえがきの一節を引用する.「本書の目的は,進化を巡る謎解きストーリーとその成果を読者に楽しんでいただくこと,そして進化を共に考え,知り,楽しむ『進化学ファン』を世に増やすことである.私はそんなファンたちのことや,ファンが昂じて研究者になってしまった人たちのことを“現代のダーウィンたち”と呼んでいる.本書には幾人かのアカデミアの世界で活躍する研究者が登場するが,これも読者にストーリーを楽しんでいただき進化学ファンへと誘うための仕掛けである.(後略)」 著者は学生時代,地質学を専門とする古生物学専攻で学んでいたとは,本書で初めて知った.本書は,著者の研究者としての歩みを述べた書でもある.本書を読み終え,進化学ファンになった私がいるのに気付いた.とにかく,面白い.
(2021年1月)

317
著者 大塚 ひかり(おおつか ひかり:古典エッセイスト)
書名 くそじじいとくそばばあの日本史
出版社等 ポプラ社,ポプラ新書196,2020年10月5日,233ページ
一言紹介 明治以前の推定された日本人の平均寿命は,‘人生50年’などとも言われるように,現在と比べるとずいぶん短かったようだ.それは乳幼児死亡率が高いことが主因であり,現在と同じように長生きした人も多かったという.ちなみに,「古代の法律(律令)での老人の規定も六十一歳以上,六十六歳で課役を免除」され,「しかも官僚が退職をゆるされる年齢は七十歳」であったという(12ページ).さて,なんともすごい題名を持つ本書は,『古事記』『日本書紀』の時代から幕末までの,高齢でも活躍した歴史上の男たち,女たちを紹介した本である.なんと‘パワフル’なくそじじいと,くそばばあの多いことか,と感心してしまう.ところで,題名が示唆するように,本書で日本史が学べるかというと,決してそうではないので,そのつもりで手に取ること.
(2021年1月)

316
著者 樹原 アンミツ(きはら あんみつ:映画監督の三原 光尋(みはら みつひろ)とフリー編集者・ライターの安倍晶子(あべ あきこ)の合作ペンネーム)
書名 東京藝大 仏さま研究室
出版社等 集英社,集英社文庫(き-24-1),2020年10月30日,331ページ,文庫本書下ろし
一言紹介 東京藝術大学大学院美術学研究科文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室(何とも長い!が,実在する)は,「仏さま研究室」と呼ばれている.この研究室に所属する4人の修士学生,川名まひる,弓削愛凛,波多野繁,斎藤壮介の物語.仏像の修復を研究・実践する一条匠道(たくみ)教授の研究室では,修士修了には「仏像模刻(もこく)」が要件となる.模刻とは,同じ素材を用いて対象物とそっくりに彫ることである.四人の中の一人ずつ,3月,5月,9月,12月の様子が描かれる.各人各様の大学に入ったときの望み,そして挫折,それゆえの葛藤と苦悩があるも,各人なりに乗り越えていく.イヤー,若いということは素晴らしい.ところで,「藝」には‘植える’や‘増やす’の意味があり,「芸」には‘くさぎる’や‘刈る’の意味があるのだそうだ(208ページ).つまり,2つの漢字は,真逆の意味なのだという.どうして藝の間略字に芸が当てられたのだろう.
(2021年1月)

315
著者 飯間 浩明(いいま ひろあき:『三省堂国語辞典』編集委員,専門は日本語学)
書名 つまずきやすい日本語 (NHK出版 学びのきほん)
出版社等 NHK出版,2019年4月30日,103ページ
一言紹介 書名の‘つまずき’とは「誤解を生む」こと.著者は断言する.「私たちがことばを一言発すると,そこには必ず『つまずき』の芽が生まれます.ことばは伝わらないこともある,ではなく,伝わらないものです」(96ページ)と.では,これを避けるためにはどうすればいいのだろうか.それは,言葉で表現する場数を踏むこと,すなわち,多くの人と話し,いろいろな種類の本を読むことだとする.「読書とは自分と違うことばを使う多くの書き手と触れ合う営みです.他人のことばを理解し,誤解を防ぐために,読書はきわめて有効です」(30ページ).ところで,私もよく使う「結構です」は,若い人にとっては「きつく,冷たい」言葉なのだそうだ(50ページ).講義で出した課題のレポートに対し,良くできた解答には「大変結構です」とコメントしていたが,若い人はそのようには受け取らないという.そこで私も,今後この言葉を使わないこととした.
(2020年12月)

314
著者 内田 樹/岩田 健太郎(うちだ たつる:神戸女学院大学・名誉教授,専門は哲学 /いわた けんたろう:神戸大学大学院医学研究科・教授,専門は感染症学)
書名 ロナと生きる
出版社等 朝日新聞出版,朝日新書783,2020年9月30日,235ページ
一言紹介 本書は,内田氏が2011年に開設した哲学と武道のための私塾「凱風館」で行った3回の対談(5月14日,6月10日,7月6日)をまとめたもの.対談に対応する「リスクとともに生きる」「葛藤とともに生きる」「偶発性とともに生きる」の3章構成.対談日と日本のコロナ感染動向とを突き合わせると,1回目は第1波が収束しつつあり,非常事態宣言が39の県で解除された当日.2回目は第1波が収まり第2波が始まる直前の時期.3回目はまさに第2波の立ち上がり期.二人はこれまでも幾度か対談の経験があるからであろう,話はすぐ核心に入り,話題が尽きない.日本は地理的特性で感染症の経験が少ない,政府の対応は場当たり的で統一性がない,結果オーライになっている,などなど.二人は,第1波の検証がないまま,したがって何の準備もなしに第2波に突入することを予見する.二人には今後もこのような情報(対談)を世に出してほしいものだ.
(2020年12月)

313
著者 井上 章一(いのうえ しょういち:国際日本文科研究センター・所長,専門は建築史・意匠論など)
書名 京都まみれ
出版社等 朝日新聞出版,朝日新書760,2020年4月30日,246ページ
一言紹介 『京都ぎらい』(2015),『京都ぎらい 官能篇』(2017,いずれも朝日新書)に続くシリーズ3作目.多くの出版社からの「東京ぎらい」の本を書けとの依頼に対し,著者はことごとく断ってきた.しかし,東京について考えることができ,今回は「ふたつの街をくらべる二都物語めいた読み物」(7ページ)になったという.さて,今回は地図により‘京都’,すなわち洛中の範囲を示している.南北には五条通から御池通,せいぜい二条通までという.「そら,やっぱり祇園祭をやるところやね.山や鉾を出すところが,ほんまの洛中,京都ということになるんやないかな」(56ページ)とのことである.京都がそんなに狭いとは,京都以外の人にはまったく理解ができませんね.ところで,本書で著者は,洛中である中京区の病院で生まれたことを初めて明かし,弁解している.ともあれ,著者が何と言おうと,一連の著作は著者の‘愛情あふれる京都紹介本’である.
(2020年12月)

312
著者 奥泉 光(おくいずみ ひかる:近畿大学・教授,専門は文学,作家)
書名 死神の棋譜
出版社等 新潮社,2020年8月25日,305ページ,「小説新潮」2019年2月号~2020年1月号に連載されたもの
一言紹介 2011年5月,名人戦が行われていた夜,千駄ヶ谷の将棋会館の近くの鳩森(はとのもり)神社の将棋堂の戸に,赤い鏃を持つ矢が刺さっていた.矢には畳んだ和紙が結んであり,開くと詰将棋の図式が描かれてあった.棋士たちは解こうとするも叶わず,不詰めの作らしい.その後この矢を見つけた棋士は失踪する.同じことが関東大震災の後にも起こっていたという.その時の和紙の裏には,解いたものは「棋道会へ馳せ参ぜよ」と記されていた.棋道会とは北海道にある鉱山主が起こした会で,人々は「将棋教」と呼んでいた.元奨励会員の‘私’は,これに興味が湧いて調べ始めていく.すると,若き女流棋士が近づいてきて・・・.将棋には確かにこんな世界もあるかもしれないと思わせる展開である.ところで最後の大団円,すなわちミステリの種明かしのことである.私にはすべてそだったのかとはなっておらず,何かもやもやしたものが残ってしまった.皆さんはどうだろうか.
(2020年11月)

311
著者 加藤 典洋(かとう のりひろ:故人1948-2019,文芸評論家,早稲田大学・名誉教授)
書名 オレの東大物語 1966-1972
出版社等 集英社,2020年9月9日,253ページ
一言紹介 一時の危機的な状況を脱した後,亡くなる数か月前に猛烈な勢いで書かれた東大時代の自分を振り返る書.おそらく,論理だけでは説明しきれない‘本音’を記すため,‘語り’調,‘独白’調の文体となった.大学時代は3期に分かれる(198ページ).入学した1966年4月から67年秋までの,「フーテンの夏」を含む楽しい時期.69年12月までの,全共闘運動に関わった「自己拡大」から「自己否定」の2年間.そして70年以降72年3月までの無為に過ごした時期.「オレは,東大はクソだ,誰も友達が残らなかった,という気持ちで,この文をはじめた.その気持ちに変わりはない.でもオレは発見した.(段落)オレも,だいぶクソだったのだ」(204ページ).人生の最後に著者はなぜこの本を書かなければならなかったのだろう.その後の文芸評論家としての彼の姿勢は,この東大時代に創られたこと,大学時代の自分から転向できなかったことを確認したかったからではなかろうか.
(2020年11月)

310
著者 井上 ひさし(いのうえ ひさし:故人1934-2010,作家)
書名 社会とことば/芝居とその周辺/小説をめぐって(井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション)
出版社等 岩波書店,2020年4月10日/5月14日/7月10日,186/191/186ページ
一言紹介 あらゆる媒体に書いた著者の作品から,これまで著書に未収録の物を捜し出し,3つのカテゴリに分けて刊行したもの.編集したのは‘井上ひさし研究家’の井上恒(ひさし)さん.著者の圧倒的な文章量に驚く.奥様であるユリさん(エッセイストの故米原万里さんの妹)いわく,「いったいひさしさんはどれだけ書いたのでしょう! (略)全部でどれだけの嵩になるのか,見当もつきません.エッセイも約五十冊出しました.多筆にして速筆.よくもまあ『遅筆堂』を名乗ったものです」と.ユリさんによると,この3冊に入りきらなかったものがまだ数倍はあるという.お楽しみは続きますとあるので,これらも楽しめそうだ.ところで,『芝居とその周辺』に収められた「絶筆ノート」と,その中のユリさんの「ひさしさんが遺したことば」には胸が打たれた.最期まで変わらぬひさしさんの思想・姿勢に感動する.(3冊のうち『小説をめぐって』)はこの欄のNo.299で既に取り上げた.)
(2020年11月)

309
著者 塩野 七生(しおの ななみ:イタリア在住の歴史エッセイスト,文筆家)
書名 小説 イタリア・ルネサンス 1 ヴェネツィア
出版社等 新潮社,新潮文庫(し-12-21),2020年10月1日,385ページ,1993年に朝日新聞社より刊行された『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』を改題のうえ大幅改稿したもの
一言紹介 実在の人物と虚構の人物を交えての歴史小説.ヴェネツィア有力貴族の嫡子マルコ・ダンドロと,ド-ジェ(元首)の妾腹の子アルヴィーゼ・グリッティは,幼い時からの友人.マルコはヴェネツィアで順調に重要な役職を担い,アルヴィーゼはコンスタンティノ-プルで貿易商となり,トルコのスルタン,スレーマンや宰相のイブラハムに近付く.時代は16世紀前半,ヴェネツィアは東にトルコ帝国,西にスペインに挟まれ,微妙な外交をせざるを得ない.歴史に翻弄される二人の運命は如何に.史実に忠実ではないが,当時のヴェネツィアの置かれた状況が描かれる.原作は,宝塚で舞台化されて大好評を博したという.著者にはローマ,フィレンツェ,そして今回のヴェネツィアを舞台にした‘殺人事件’3部作がある.本書は4巻シリーズの第1巻目.新作の1作品を含め,今後毎月刊行されると予告.なんと楽しみなことか.
(2020年10月)

308
著者 内田 洋子(うちだ ようこ:イタリア在住のジャーナリスト,エッセイスト)
書名 イタリアの引き出し
出版社等 朝日新聞出版,朝日文庫,2020年9月30日,202ページ,2013年6月に阪急コミュニケーションズから刊行された単行本に加筆修正をしたもの
一言紹介 本書は,イタリア各地で著者が経験した日常の中の出来事を記した60編の掌編エッセイ集.イタリアの大都市であるミラノやヴェネツィアから小さな村や島,天気や四季,街や広場,大通りから裏通り,子供からお年寄り,そして職人から芸術家まで,多くの場所と多くの人との出会いが綴られる.それらは‘イタリアの引き出し’であり,著者の机の‘引き出しのイタリア’でもある.収められた作品は,著者がミラノで生活していた2012年から2013年の間のもの.どの作品にも,‘小さく切り取られたイタリア‘を味わうことができる.佐久間文子さんの解説で知ったのだが,著者は昨年,ウンベルト・アニエッリ記念ジャーナリスト賞を受賞されたという.最近の作品『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』と,それがきっかけとなったイアリアの子供たちと日本との交流が評価された.
(2020年10月)

307
著者 ヤマザキマリ(やまざきまり:漫画家・文筆家)
書名 たちどまって考える
出版社等 中央公論新社,中公新書ラクレ699,2020年9月10日,245ページ
一言紹介 新型コロナ・パンデミックにより,著者は家族が住むイタリアへ帰ることができない.本書は,「(略)長い期間家に閉じこもり,旅にも出ずに歩みを止め,たちどまったことで見えてきた景色について記し」たもの(はじめに).そして「私たちが今ここでたちどまった意味とは,パンデミックという状況下でヒトという社会性をもった生き物がそもそも何なのか,危機が自分たちの社会に迫ったとき,どのような反応をする生き物なのか,今までと違う角度から見直すことにあるのではないでしょうか」(おわりに)とする.人類社会では,14世紀のペスト大流行後にルネッサンスが興り,一方,100年前のスペイン風邪大流行後にナチズムやファシズムの台頭を許した.このパンデミックは,人類が今後どのような世界作れるのか,学習する機会を与えてくれたのだとする.本書は多くの国々で生活した著者へのインタビューを基に原稿化したもので,読者にも考えさせる本となっている.
(2020年10月)

306
著者 日本文藝家協会 編(にほんぶんげいかきょうかい へん:編集委員は,角田光代,林真理子,藤沢周,町田康,三浦しをんの5氏)
書名 ベスト・エッセイ The Best Essay 2020
出版社等 光村図書出版,2020年8月5日,358ページ
一言紹介 毎年出版されているベスト・エッセイ集.2019年に発表された77編が収められた.印象的だったのは故加藤典洋さん(高校の大先輩なのです)のエッセイ,「助けられて考えること」(324~327ページ).教室のやり取りで学生から教えられることが多かったことを,サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」を例に紹介する.学生の指摘により,教えることも考えることも,本来は双方向的なものであり,「一番よいのは,人に助けられて考える」ことだと思うようになったという.今回は,亡くなられた方を悼むエッセイが多かった.ショウケン(著者は瀬戸内寂聴),ケーシー高峰(沢田隆治),池内紀(川本三郎),安部譲二(山田詠美),橋本治(保坂和志),市原悦子(秋山仁),田辺聖子(林真理子),堀文子(檀ふみ),堺屋太一(三田誠広),和田誠(横尾忠則),加藤典洋(マイケル・エメリック)と12名にも及ぶ.
(2020年9月)

305
著者 山本 智之(やまもと ともゆき:朝日新聞記者を経て,現在朝日学生新聞社編集委員,科学ジャーナリスト)
書名 温暖化で日本の海に何が起こるのか 水面下で変わりゆく海の生態系
出版社等 講談社,ブルーバックス(B-2148),2020年8月20日,302ページ
一言紹介 本書は,「海洋大異変―日本の魚食文化に迫る危機」(朝日新聞出版,2015)の著者による,温暖化に伴う海洋生態系の変化についてのレポート第2弾.進行中の温暖化に伴い,海水温は上昇し,同時に海水のpH(水素イオン指数)は減少する(酸性化).これら2つの環境変化に伴うプランクトンから甲殻類や魚,そして海藻までの海洋生態系の変化を,50名を超える研究者への丹念な取材と,自らが潜水しての現場観察を基に報告する.‘海の温暖化’や‘海水の酸性化’は,サンゴの白化や死滅をはじめ,魚や貝などの水産資源の劣化まで,大きな変化が予想される.その結果,お寿司の‘ネタ’の将来も大いに危うく,海洋食料資源の未来は明るくはなさそうだ.日本各地の多くの研究者が,それぞれの立場で温暖化と海洋生態系の関係を調べているのがとても印象的.
(2020年9月)

304
著者 ヤマザキ マリ/中野 信子(やまざき まり:漫画家・文筆家/東日本国際大学・特任教授,専門は脳科学)
書名 パンデミックの文明論
出版社等 文藝春秋,文春新書1276,2020年8月20日,212ページ
一言紹介 本書は,本年(2020年)5月25日の緊急事態宣言解除の直後に,オンラインで行った二人の対談の記録である.本書の内容は中野さんの次の発言で尽きているのではないか.「歴史という縦軸と,日本とヨーロッパという地域の横軸を掛け合わせて感染症を語ってみたら,文明史的な観点から現在という時を俯瞰できる面白い議論ができ,きっと多くの人の思考に役に立ててもらえる本ができるだろう」と.その通り,二人の話は縦横無尽.ローマ帝国史から脳科学の最先端の知見まで,実に幅広い分野にわたる.ところで,ヤマザキさんの夫は,イタリア人でイタリア在住.ヤマザキさんは緊急事態宣言時に日本に帰っていたこともあり,以来別居生活が続いているという.「電話すると衝突の連続.今回ほど国際結婚がどんなに大変なものか思い知らされたことはありませんよ」とのこと.家庭も今までとは異なる‘新しい様式’に入っていく今日この頃である.
(2020年9月)

303
著者 鷲田 清一(わしだ きよかず:元大阪大学・総長,元京都市立芸術大学・学長,専門は臨床哲学)
書名 岐路の前にいる君たちへ 鷲田清一式辞集
出版社等 朝日出版社,2019年12月20日,191ページ
一言紹介 2007年8月から2011年8月まで務めた大阪大学・総長時代の入学式(5回)と卒業式(学位記授与式,4回),2015年4月から2019年3月まで務めた京都市立芸術大学・学長時代の入学式(4回)と卒業式(4回)の式辞,17回分を収めた.掲載された式辞は抜粋されたもので,加筆・修正がなされている.あとがきを引用したい.「(略)研究・教育の現場の日常とは反対に,卒業式・入学式ではそれぞれ終わりの挨拶,始まりの挨拶なので,どうしても明確なメッセージを送る必要があり,言葉もつい伝えるべき確信と訴えに重きを置くことになります.とりわけ,芸大では,(略)言葉を贈る,届けるという,言葉の“生身”というのを痛いほど感じました.一方,阪大ではみなが各界に巣だっていくので,そのベースとなるような一般的な心構えしか話せませんでした」(190ページ).どの式辞も哲学者らしい言葉と表現,そしてメッセージである.

302
著者 養老 孟司/山極 寿一(ようろう たけし:東京大学・名誉教授,専門は解剖学/やまぎわ じゅいち:京都大学・総長,専門は霊長類学 )
書名 虫とゴリラ
出版社等 毎日新聞出版,2020年4月30日,234ページ
一言紹介 2018・19年にかけて行われた3回の対談を編集したもの.医学者・昆虫学者として活躍している養老さんと,日本猿やゴリラの研究者である山極さんとが,それぞれの‘見方’で現代社会や日本を論ずる.複数回の対談であるが,話には切れ目がない.いたるところで現代日本の危うさが指摘される.養老の「一番悪いのは,課外授業かなんかで,子供を山に連れていって,『それで何を学びましたか』ということを,紙に書かせて先生に報告させる.お話にならないです」に対し,山極は「それは初等・中等も,高等教育も,みんなそうなんだけど,(略)すぐに成果を求めますね.『どんな能力がつきましたか』とか」と続ける.さて,人間社会や日本の未来に対し山極は,ディストピアの未来では,世界中でグローバル企業が末端の人間まで支配する奴隷制を予見するが,ベーシック・インカムでみんなが生きる権利を持つ時代が来ると考えたい,とする(210ページ).

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著者 平田 オリザ(ひらた おりざ:劇作家・演出家,大阪大学・東京芸術大学の特任教授)
書名 22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」
出版社等 講談社,講談社現代新書2565,2020年3月20日,249ページ
一言紹介 本書は,講談社の月刊PR誌『本』に2018年4月から2019年6月まで15回にわたる連載に加筆修正をしたもの.まず,この間安倍内閣が強力に押し進めようとした教育改革,とりわけ大学入試改革に焦点を当て,その問題点を指摘する.入試改革はほぼすべて実現しなかったが,記述式問題の導入や,民間英語検定試験利用の功罪を検討する.さらに,現代の中高生の文章読解能力を取り上げ,その力が本当に落ちているのかを問う.著者は,これからの教育には,IQや学力テストで測定できる能力ではなく,集中力や忍耐心,やり遂げる力,協調性など,広範囲にわたる「非認知スキル」を伸ばすことが重要であると主張する.それには演劇を取り入れた教育が効果的であると,著者の実践例も交えて述べる.確かに,演劇は‘素の自分’ではなく,予め想定された役柄を演じなければならない.これは,他者に寄り添うことと,多様性を受け入れることへの第一歩であろう.
(2020年8月)