ウォーカー卿とラマヌジャン
お茶の水女子大学理学部の数学者,藤原正彦教授は,名エッセイストとして知られている.私は彼のほとんどすべての著書(もちろん専門書以外の本です)を読んでいるが,その軽妙洒脱な筆致には,いつもうなってしまう.小説家新田二郎氏を父に,藤原ていさんを母にもつ同氏は,文学的才能も十分にご両親から引き継がれたのであろう.

さて,数年前,同氏の「孤独な数学者」(新潮文庫,2001年)を手に取る機会があった.氏が尊敬してやまないニュートン,ハミルトン,ラマヌジャンという3人の天才数学者のことを書いたものである.各人の数学的業績の紹介ではなく,彼らが過ごしたり,訪問したりした場所に,藤原氏自身が実際に訪れて,一人一人の生き方について,想いをめぐらしたことを記している.エッセイというよりは,紀行集のような作品である.

さて,インドのシュリニバーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の天才ぶりについては,この本に限らず多くのところで語られている.イギリスのケンブリッジ大学の大数学者,ハーディ教授がラマヌジャンを見出し,彼を世に送り出した.後に,ハーディ教授は,「私の数学界への最大貢献はラマヌジャンの発見である」と述べたらしい(同書114ページ).

さて,藤原氏のこの本の中で,インドの港湾局事務員であったラマヌジャンが世に出るきっかけを作った一人に,ウォーカー卿が出てきたので驚いた.そう,インド気象台の長官で,モンスーンの予測の研究の過程で「南方振動」を発見したウォーカー卿(Sir Gilbert Walker, 1868-1958)である.今の言葉でいえば,「大気海洋相互作用」の先駆けの仕事を精力的行い,インド・モンスーンの研究の中から「南方振動」を発見した.そしてこれらの業績により,赤道域大気の東西循環に「ウォーカー循環」と冠を付けられたその人である.

以下,藤原氏の本から引用しよう(169ページ,以下「」は引用した部分).ラマヌジャンは既にハーディ教授とは手紙のやり取りをしていたものの,まだ,イギリス行きが決まっていなかったときのことである.

「折しも,港湾局長のスプリング卿を,気象台長のウォーカー博士が,潮の干満調査のために訪問する.大気大循環モデルの草分けであり.モンスーンの父とも呼ばれるこの著名な気象学者は,実はケンブリッジで数学を専攻し,トライポスでは最優等賞までとった人物だった.ウォーカーばかりでなく,ケンブリッジでは,学部時代にまず数学を専攻し,後に他分野に移るという人がよくいる.経済学のケインズや哲学のラッセルをはじめ,多くのノーベル物理学賞受賞者がそうである.」

文中,「大気大循環モデルの草分け」なる形容は,われわれの認識とは違うのだが,それはさておき,ウォーカーは,ケンブリッジのトリニティ・カレッジを出た数学者であった.トライポスとは,ケンブリッジの卒業試験のことで,当時4日間ぶっ通しの試験が2回行われたという.大変難しい試験であるが,ウォーカーは最優等の成績をとった.Katz(2002)によれば,ウォーカーは大学卒業後,トリニティ・カレッジのフェロー,そして講師として1903年までとどまる.1903年,当時インド気象台長であったジョン・エリオットが数学に強いウォーカーを強く後任に推薦したことにより,ウォーカーはインドに渡り,1904年から台長の職に付く.また,英国ロイヤル・ソサイァティのフェローに選ばれたのもこの年であった.

引用したウォーカーのスプリング卿への訪問は,藤原氏の本には日付が明記されていないのだが,1913年のことと思われる.面会したとき,局長は,「自慢の部下ラマヌジャンの数学の研究成果を,本人ではなく上司のナライヤ・イーヤーに説明させた」.「説明を受けたウォーカー博士は驚愕し,さっそく翌日,マドラス大学に(奨学金を与えるよう:筆者注)手紙をしたためる」.

マドラス大学はこの要請を受け,月々75ルピーの研究奨学金を2年間にわたりラマヌジャンに支給することを決めた.義務は,3か月ごとに研究報告書を提出することだけだったという.

奨学金をもらうことになったラマヌジャンは,すぐ港湾局に休暇願を出し,マドラスで家族とともに住み,「生まれてはじめて食べ物の心配をせずに,数学にうちこめるようになった」のだという.

藤原氏の本では,この出来事の帰結として,次のように結んでいる(176ページ).

「青緑の内壁に沿って並べられた長い机と籐椅子の,定まった席に陣取って,ラマヌジャンは何の心配もなく,数学に明け暮れていたのである.数学において,新しい知見を得た瞬間とその後しばらくは,たとえようもない喜びに満たされるものである.並の数学者は年に一,二度だが,ラマヌジャンにはそれが毎日起きていた.人生で最も幸せな日々であった.」

その後ラマヌジャンは,ハーディ教授の熱心な誘いにより,1914年に渡英したのであった.ウォーカーとの出会いがなかったら,ラマヌジャンの英国行きも,もう少し違った形になっていたように思える.天才は,天才のみが理解できるといわれるが,このエピソードもそれを物語っているのではなかろうか.

なお,ウォーカーは,1924年,気象台長としての職を終え,イギリスに帰国している.その間のウォーカーの功績に対し,同年,英国王はナイトの称号を与えた.そこで今,私たちは彼をウォーカー卿と呼んでいる.


参考文献

Katz, R.W., 2002: Sir Gilbert Walker and a connection between El Nino and statistics. Statistics Science, 17(1), 97-112.


2005年11月15日記


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