体格指数と海上気象観測
キログラムで表した体重を,メートルで表した身長の2乗で割った数値が「体格指数」である.英語ではbody mass indexであるので,頭文字をとって「BMI」と表現されることも多い.これまで,適正な体重はどの程度であるのかについては,さまざまな指数が使われてきた.例えば,センチメートルで表した身長から,110を引いた値(キログラム)が標準でなどと.しかし,最近はこのBMIがよく使われている.実際,私が40歳になって以来毎年行っている「人間ドック」の報告書では,2001年までは「肥満度(実測体重から標準体重を引き,標準体重で除したもの.%で表す.)」で表現されていたものが,2002年からはBMIで表現されるようになった.ちなみに,男性の「普通」と「やや肥満」の境目は25であり,私の数値もこの辺りをさまよっている.

外洋を航行するすべての船舶は,気温,風向・風速,気圧,湿度などを計る標準的な測器を備え,1日に何回か定期的に「海上気象観測」を行い,我が国でいえば気象庁など,最寄りの気象機関に報告することが義務付けられている.現在,我が国では,この観測は「気象業務法」および「気象業務法施行規則」で規定されている.海上気象観測は,日常的に世界中の国々に籍を置く船舶で行われているが,この制度ができたのは,今から150年以上も前の1853年,ベルギーのブリュッセルで開催された(第1回)海事会議(Maritime Conference)でのことであった.この海上気象資料は,これまで世界中で約2億通(一連の観測の回数)あり,気候変動や地球温暖化の研究に,欠かせないものとなっている.

さて,思わせぶりに二つのことを書いたが,ここに登場する主役は,ベルギー人の科学者,アドルフ・ケトレ(Adolphe Quetelet,1796-1874)である.

ケトレは,数学者,とりわけ統計学者にして天文学者として紹介されることが多い.ケトレは,1819年にベルギーのGhent大学で博士号を取得し,その後,数学を教えていたが,1824年にパリに留学し,天文学のほか,ラプラス(Pierre Laplace)やフーリエ(Joseph Fourier)から確率論を学んだ.1828年には自らの寄付によって天体観測や気象観測を行う王立観測所(Royal Observatory)を設立し,その初代所長となった.

当初ケトレは,確率論や統計学を天体や気象の観測資料に用いたのだが,その後,人間も含めて社会のさまざまな現象に確率・統計学を応用したという.例えば,人間の肉体的要素(身長,体重など)の多くの資料を収集し,それらが正規分布であることを確認して,その平均値を典型的な値とみなした.そして,全てが平均値をもつ人間として,「平均値人間(average man)」なる概念も提案した.このような研究の中での成果の一つが,先のBMI(海外では,ケトレ数とも呼ばれているらしい)であった.ケトレは,社会科学の成立にもっとも大きな影響を及ぼした研究者で,「社会統計学の創始者」とも呼ばれている.

また,ケトレは,とりわけ国際的な研究協力を行うことに努力したようである.実際,(第1回)国際統計学研究集会を1853年に主催しているという.

まさに同じ年,1853年の8月から9月にかけて(第1回)海事会議がベルギーブリュッセルで開催されたのであった.10か国から12人が参加しているが,主導したのはケトレと米国海軍所属のモーリー(Matthew F. Maury)である.ケトレを紹介する資料からは,この海事会議を主催したことすらまったく見つけられなかった.そのうち,モーリー側からこの経緯を調べてみようと思っている.

なお,我が国の海上気象観測は,内務省令により1890年から義務付けられ,資料が収集されている.当初,神戸海洋気象台がこれらの資料を収集・保管したので,これらの資料は現在「神戸コレクション」として,世界的に知られている.

さて,1999年9月13日から17日まで,東京都立大学(当時)にて,「Climate Change and Variability -Past, Present and Future-」と題する国際研究集会が開催された.私はこの中で,「Reconstruction of sea surface wind field using historical sea level pressure data」と題する講演を行った.休憩時間,講演の終わった私のところに,海上気象観測が開始された経緯は知っていますかと尋ねてきた紳士がいた.ベルギー王立気象研究所(王立観測所を引き継いだ施設)の海洋部門の長であるGaston R. Demaree博士であった.このときの話の中にケトレの名前が出てきた.その話しぶりから,彼はケトレをたいそう尊敬していることがわかった.また,1853年の海事会議の議事録が出版されているというので,彼からそのコピーを送ってもらう約束をした.その後,その年の11月になってコピーが送られてきた.偶数ページに英語で,奇数ページにフランス語で書かれた200ページに及ぶ議事録であった.

注記:ケトレの記述は,Wikipedia百科事典などを参考にした.


2006年4月15日記


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