サッカーを見ることは奇跡を見ること |
6月(2006年),ドイツで開催されるワールドカップを直前にして,サッカーが世界中で大きな関心事となっている.私はあまり熱心なサッカーファンではないが,それでも,何かと気にはなっている.実際,日本と韓国で開催された前回のワールドカップでは,地元仙台で日本の最後となった試合が行われたこともあり,試合をリアルタイムで見て興奮してしまった. J2ではあるが,地元仙台には「ベガルタ」が,もう一つの地元(?)山形には「モンテジオ」があるので,J2の結果もそれなりに気にしている.もっとも,J1の情報はまったく蚊帳の外で,何も知らない状態ではあるが. サッカーは世界で一番人気のあるスポーツといわれる.競技人口は,野球の比ではないという.また,ボール1個とちょっとした広場があれば,どんなところでも,何人でもやれるので,もっとも手軽にできる子供たちの遊びでもある. そして試合でも,多くの観衆を集めるスポーツであり,ワールドカップの試合ともなれば,世界中で何億,何十億という人たちがテレビに釘付けになっているという.競技人口も多いので,当然といえば当然なのであるが,どうしてこんなに人を魅了するのであろうか. 私と同年代の作家に村上龍氏がいる.想像力溢れる彼の小説にはいつも唸ってしまう.中でも私のお気に入りは,「愛と幻想のファシズム」(1987年,講談社)である.国家とは,その中での人間の幸福とは何か,を問いかけた力作であり,日本人の作家には珍しく,スケールの大きな作品となっている.常日頃,皆さんにお薦めしている作品でもある. さて,村上氏は,自他共に認めるサッカーファンである.1998年のワールドカップはフランスで開催された.日本が初めてワールドカップに参加した記念すべき大会であった.村上氏は,これを見るためフランスに渡り,そして地元で書いたエッセイを週刊朝日に寄稿している.山形の家では週刊朝日を定期購読しているので,自然と彼の記事を読むこととなった. 彼は週刊朝日に数回にわたって報告していたと思うが,今では定かではない.また,その内容もほとんど忘れてしまった.しかし,とりわけ印象に残るフレーズがあった.それが,「サッカーのゴールは奇跡であり,人はこの奇跡を見るためにサッカーを見るのだ」というものである.それ以来,私はサッカーの話になるたびに,知ったかぶりをしてこのフレーズを紹介している. なるほど,サッカーでは,シュートすら少なく,ボールがゴールを割ることも,90分という試合の中で多くともたった数回であり,双方のチームで点数がはいらないことも多い.何せ,ゴールを専門に守るキーパーが,両手,両足を広げて立ちふさがっているのである.一つのゴールの裏には,ゴールに直接結びつかないプレーが何十回,何百回も行われている.そのような中でのゴールは,確かに奇跡に違いない. 週刊朝日の記事ではないが,最近読んだ村上氏のエッセイ集に,同様の表現を見つけたのでこれを引用しておこう.「前に書いたのでこの言い回しは繰り返したくないのだが」に続き,次のように述べている. 「サッカーにおいてゴールは常に奇跡だ.その奇跡は,ある選手の突出したプレーやあるいは信じられないようなミスやまた神が演出したとしか思えないような偶然によって生まれる.だからサッカーを見る人は奇跡を見に行くのだ.奇跡の成立過程を見ると言ってもよい.奇跡の成立する過程が,歴史であり物語なのである.」(明日できることは今日しない,すべての男は消耗品である,Vol.5,幻冬舎文庫,2004年,234-235ページ) さて,来月はどんな奇跡を見ることができるのであろうか.ワクワクしている. 2006年5月15日記 website top page |