海洋学の父モーリー |
私たちの研究室では,1992年に最初のUNIXマシーンを導入した.その後,毎年少しずつ整備し,一時は15台ほど抱えていた.これらのマシーンには,学生・院生の発案により,ロスビー,ケルビン,ストンメルなど,海洋物理学に関連の深い先達の名前が付けられ,各マシーンはその愛称で呼ばれていた.その中の一つに,「モーリー」がある. モーリーとは,Matthew Fountain Maury(1806-1873)のことであり,先のエッセイ(「体格指数と海上気象観測」2006年4月15日)で記した1853年の第1回海事会議を,アドルフ・ケトレとともに主催したもう一人の立役者である. モーリーは,1806年1月14日,米国南部のヴァージニア州に生まれた.5歳のときに,テネシー州に移り,教育を受けた.海軍士官だった長兄の影響を受け,1825年,19歳で米国海軍に入る.1834年まで,米国海軍が行った3回の長期航海に参加した.そのうちの1回は,米国海軍初の世界一周航海であった.これらの航海に参加している間の1830年ごろ,球面三角法を用いた航海術を開発・発展させ,航海技術に関する教科書を執筆する.また,このときから海流や海上風のデータ収集を始めている.また,この間,モーリーは盛んに海軍の再編を呼びかける政治的評論を書いているらしい. 1839年,家族に会うため帰省したヴァージニア州で,乗合馬車の事故に会い,足を骨折した.治療が悪かったらしく,以後,船乗りとしての乗船は不可能となる. 1842年,ワシントンDCにある米国海軍海図・測器局長に就任する.その立場を利用して,ログブック(航海日誌・海上気象観測野帳)を作成し,軍艦や商船に海流と海上気象の観測を依頼する.海図や航海技術,気象学や海洋学の本も執筆する.1844年,海図・測器局は海軍観測所に組織替えになり,モーリーは初代所長となる.また,海軍士官を育てるためのアカデミーの設立を働きかけていたが,その努力が実り,1845年,アナポリス海軍士官学校が設置された.また,このころ,世界の未踏の地域への探検を働きかけ,実際,極域やアマゾン川への探検隊派遣が行われた. これら一連の仕事により,彼は世界的名声を得るようになった.そして,国際的に統一された方式で,海流や海上気象の観測を行う準備のための会議を働きかけた.1853年,これが第1回海事会議として実現する.モーリーは米国代表として出席し,基調演説を行った.この会議で最終的に,彼が提案したログブックが世界標準となって,観測とその資料の収集が開始された. 1855年,「海の物理地理学」(Physical Geography of the Sea)なる最初の海洋学の教科書を出版する. 1861年,緊張感が高まっていた北部と南部の諸州の間で,ついに「南北戦争」が勃発する.このため,モーリーは米国海軍(結果的に,北軍)を辞し,南部連合国側に加わる.そして,南部連合国海軍の提督に任命され,その名声を利用し,軍艦の調達とヨーロッパ各国の支援を得るため,英国に渡る.英国滞在中の1865年,南軍の敗戦で終戦を迎える. モーリーは重要戦争犯罪人であり,恩赦を受けることができないため,戦後も英国に留まる.その後,メキシコ皇帝マキシミリアンの招聘によりメキシコに渡り,「新ヴァージニア植民地」を作る運動を行い,南軍軍人を中心とする人たちの移住運動を推進した. しかし,残した家族に会うため英国に戻っている最中,メキシコ皇帝はその地位を奪われ,この移住計画は頓挫する.そのため,引き続きモーリーは英国に留まることになる.その間,南部の幾つかの大学から教授職の申し出があり,最終的にモーリーは,ヴァージニア海軍研究所の気象学の教授職に就くことを決意する.1868年,英国から戻る船旅の間,米国大統領ジョンソンは恩赦宣言を公布し,モーリーは無事米国に帰国できた. 1872年秋,モーリーは講演旅行中に病に倒れ,療養の甲斐なく,1873年2月1日に亡くなる.彼の亡骸は,当初レキシントンに埋葬されるも,後にリッチモンドに移された.彼の誕生日である1月14日は,現在,ヴァージニア州の祝日となっている. モーリーはその海洋学に対する先駆的業績により,「Pathfinder of the Seas」(海洋の開拓者),また,「Father of Naval Oceanography and Meteorology」(海軍海洋学・気象学の父)と呼ばれている. モーリーの一生は,なんと波乱に富んだものであったろう.彼の発案による海上気象観測システムは,150年以上を経た現在まで,確固たるものとして引き継がれている.このシステムで収集された海上気象資料は,現在まで数億通に達し,I-COADS(国際統合海洋大気データセット)としてデータベース化され,世界中の多くの研究者が利用している. 2003年11月17-18日,ベルギーのブリュッセルにて,第1回海事会議から150周年を記念したセミナーが開催された.私は,近接して開催される別の国際シンポジウム(第1回国際アルゴ科学シンポジム)で基調講演を行うことになっていたため,残念ながら出席できなかったが,研究室からは安中さやかさんがこの記念碑的なセミナーに参加している. なお,私たちの研究室の「モーリー」は,メールサーバーとして長い間活躍したマシーンである.現在はもう役目を終えたとはいえ,計算機室の片隅にまだ鎮座している. <本稿を記すにあたり,以下のウェッブサイトを参考にした> http://xroads.virginia.edu/UG97/monument/maurybio.html http://oceansonline.com/maury.htm http://www.historpoint.org Wikipedia, the free encyclopedia 2006年6月15日記 website top page |