毎年6月ごろの楽しみは・・・
毎年6月ごろ,シリーズ化された1冊の文庫本が出版される.私はこの本がとても楽しみで,5月ごろから,新聞の広告欄を注目したり,本屋さんで探したりと,そわそわしてしまう.こんな行動をしても何にもならないのだが,一刻も早く読みたいので,毎年毎年,ついついこうしてしまう.

この楽しみな文庫本とは,高島俊男さんの「お言葉ですが・・・」シリーズである.今年は6月10日を発行日として,その第7集,「漢字語源の筋違い」(文春文庫,2006年,317ページ)が出版された.出版されるやいなや,早速これを買い求め,一気に読んでしまった.毎回のことであるが,読みながら抱腹絶倒,大いに楽しませていただいた.

著者の高島さんは中国古典文学の研究者であり,長らく大学で教鞭をとってこられた方である.当然のことながら中国語,すなわち,漢字にとても詳しく,日頃私たちが使っている漢字の由来などの薀蓄が,多数散りばめられている.

「お言葉ですが・・・」は,週刊文春に1995年から連載されている2ページにわたる,いまや週刊文春を代表する名物エッセイである.もっとも,私は日常的に週刊文春を読む機会を持たないので,誌上で「お言葉ですが・・・」を読むのは,年にほんの数回程度である.

さて,連載が1年分貯まると,まず,単行本として刊行される.そのとき,読者からの反応が各エッセイの末尾に,著者によって書き加えられ,また,誤った記述に対する訂正などがなされる.

そして,さらに数年経ったところで,文春文庫に収まる.このとき,さらに各エッセイの末尾に,その後の反響などのエピソードが付け加えられることがある.したがって,文庫本に収められたエッセイは,実は4-5年も前に書かれたエッセイなのである.実際,今年刊行された第7集の「お言葉ですが・・・」は,2001年から2002年にかけて執筆されたものであった.

このエッセイ欄の題名,「お言葉ですが・・・」は,私なりの解釈であるが,掛詞(かけことば)で,日常使われている話し言葉,書き言葉に対する著者の感想や,感慨,意見を主に述べるエッセイであることを示しているとともに,他人の考え,意見や行動に対して,「お言葉ですが・・・」と,異論や反論などを述べるエッセイであることも示している.

同氏のこれまでのエッセイから,多くのことを知ったり,学んだりすることができたが,今回の本からも,なるほどなるほどと,学んだことがたくさんあった.その一つに「勉強」という言葉がある(「勉強しまっせ」,211-216ページ).以下は,この本で得た「勉強」への知識をもとにした私なりの紹介である.

今では勉強とは,「学習すること」に用いられるが,もともとの意味は「懸命に頑張ること」に用いられたという.実際,本家の中国では,勉強は現在もごく普通の言葉で,「むりやりに」という「副詞」であるという.

まず,「勉」は「免」に「力」を添えた漢字であるとのこと.そして,「免」は,「ク」がかがんだ女性を,その下の口は穴を,そして「儿」は子供をそれぞれ表しており,全体で「狭いところを抜け出る」,翻って,「無理してでも頑張る」という意味となる.したがって,出産を表すときは,「女」を加えて,「娩」(分娩の娩)となり,他人にしいたり,自分にしいたりすることを表すときは,「力」を加えて「勉」となる.

なるほど「免」がそういう意味ならば,放免は,狭い牢屋から開放されることを意味するし,免許証は,狭き門(試験)を通ったので許可を与えた証書と理解できる.

さて,「強」も「しいること」なので,「勉強」は結局,「懸命に頑張ること」,「できないことを無理しても行うこと」,ということになる.

このエッセイの表題,「勉強しまっせ」は,買い物のとき,売り手が(無理しているのだが)「値引きしますよ」という意味に用いている言葉である.今ではあまり使われなくなったと思うが(関西ではそうでもないかもしれない),この使い方は,原義どおりの使い方である.

勉強も,「勉強して学問する」のような使い方から,「英語を勉強する」のように,いつしか単独で「学習する」の意味になったのだという.高島氏よれば,このような使い方は,明治のなかごろからではないかとしている.

なるほどなるほど,これは「目から鱗」である.勉強はやはり無理してやるものであるから,勉強は面白くないのも,当然である.

さて,先に書いたように,高島氏の週刊文春のエッセイは,現在も続いている.すなわち,少なくともあと5冊の文庫本が出るのは間違いなく,あと5年の楽しみを約束されているようで,これは大変に嬉しいことである.高島氏には,今後いつまでも健筆を奮ってほしいと願っている.


2006年7月15日記


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