これは「分」が悪いのかな |
王子製紙グループの広報誌は「森の響(もりのうた)」である.その2007年春号(Vol. 41)に,「100年コラム/地球環境のいま,そして100年後 Vol. 1」が掲載された(19-23ページ).「森が育てば,海も豊かに.生命の源に忍び寄る,生態系の危機」との副題で,私も含めて5人の海洋研究者の取材をもとにした記事である. 記事を書いたのは,サイエンス・ライターのAさんである.取材は,1月末に,Aさんがわざわざ私の研究室に訪問して行われた.Aさんは,大手新聞社の経済畑の元記者であり,事前に私がこれまで書いていたものを読んでいた.また質問内容も届いていたので,Aさんの取材は短時間に,かつスムーズに行われた.さて,後日,ゲラ刷りが届いた.5人の研究者の話が,一つの話の筋でうまくまとめられており,また,記載されている内容もセンセーショナルな取り上げ方ではないことがわかった. ところで,ゲラの中の私に関係する記述で,「塩分」と表記すべきところが,ことごとく「塩分濃度」になっているのに気づいた.またか,との思いである. 「またか」の意味は,新聞等のメディアでは,「塩分」は必ず「塩分濃度」となってしまうからである.実際,年明け早々,私も取材を受けて大手A新聞に掲載された記事がある.取材した記者のNさんには,口を酸っぱくして「塩分濃度とは使いません,塩分ですよ」と言ったのにもかかわらず,掲載された記事には「塩分濃度」が使われていた.Nさんの元原稿からそうなっていたのであろうか.きっと,デスクか,校閲部が,勝手に「濃度」を挿入したのだと思うのだが. さて,広報誌のほうであるが,ゲラを送ってくれた編集者の,もう一人のAさんに,「5箇所に塩分濃度が出てきますが,私たちは塩分濃度とは使いませんので,塩分にしてくださいませんか」とお願いした.海洋学で用いる用語法では「塩分」であり,「塩分濃度」とは決して使わないのである. 3月の初め,印刷された広報誌が送付されてきた.恐る恐る記事を読んでみると,私のクレームに,上手な対応がなされていることを知った.すなわち,引用符で囲まれた私の発言のところ,2箇所では「塩分」に,そうでない,解説的なところ,3箇所では「塩分濃度」のまま残されていたのである. 研究者から「塩分濃度」は学術用語ではないので訂正して欲しいとの申し出を受けて,編集者のAさんはさぞかし困ったでしょうね.でも,この対応の仕方には感心した.そのような訳で,ライターのAさんや編集者のAさんに,そしてこの広報誌に,とても好感を持ってしまった. さて,「塩分濃度」は,どうしてダメなのであろうか. まず,「分(ぶん)」とは何かである.今,手元にある辞書(新潮 「現代国語辞典」,1985年版)で「分」を引いてみると,「『・・・である部分』の意を添える語」とある.すなわち,「比」,あるいは「割合」の意味である.例として,「アルコール分,塩分,灰分,金分,純分,水分,成分,鉄分,糖分,油分,養分」(辞書の表現では,分のところは縦の棒)が上げられていた.灰分,金分,純分などの言葉もあるのですね,このような言葉,知りませんでした. さて,海洋学での「塩分」とは,「海水1kg中に溶解している固形物質の全量」の意味となる(海洋大事典,東京堂出版,1987年,38ページ).したがって,単位は「g/kg」,もしくは「‰(パーミル)」であった.であった,というのは,1978年,UNESCO(ユネスコ:国際連合教育科学文化機関)が新に「実用塩分」の定義を提案し,1982年から,単位がなくなってしまったからである.現在は,「この海水の塩分は35」などと表現する.単位がなくなった理由は,計測の仕方が,電気伝導度(電気の伝わりやすさ)の,基準の水と実際の海水の「比」から求めるようになったからである.通常,塩分の観測に使われる計測器を,CTD(電気伝導度−水温−水深計)という. 世の中では,「塩分の取りすぎ」などと表現することが多い.「塩の取りすぎ」とはあまり使わないようである.すなわち,世の中では,「塩分」は,「塩」のこととして使われているのである. 「塩分濃度」がおかしいことは,ビールの「アルコール分」は5%,とは言っても,ビールの「アルコール『分』濃度」は5%,とは決して言わないことからも,即座にわかりますよね.分と濃度を重ねると,二重の表現になってしまうのである. 最近,エリック・ローランの小説,「深海の大河」(長島良三訳,小学館文庫,2007年)を読んだ.地球を守る極秘組織「委員会」のために,諜報や戦闘活動を行うヒーロー,セス・コルトンの活躍を描いたシリーズの第二作目である.この小説の中にも,訳者が苦労したであろう箇所が出てくる. ドイツ人の海洋学者バイヤー(悪人です)が,深海(底層)流の流れる道筋を変え,気候に変化をもたらしてしまう.そしてバイヤーは,その警告のためのビデオを,国連の安全保障理事会に送りつける.以下はその場面でのバイヤー発言の一部である.長くなってしまうが,引用しよう(312ページ). 「諸君は,数ヶ月前から気候が大きく変化していることに気づいているだろう.これはほんの序の口にすぎない.この変動の原因は私の工事だ.あと三十年足らずのうちに,地球はあらたな氷河期にはいり,だれも,なにも,それを妨げることはできない.三万年前,現在の米国北部とカナダに相当する地域の氷がとけて,数百万平方キロに及ぶ広大な淡水湖が出現した.その湖を囲む氷床は,周囲の気温が上昇するにつれて日に日に解けていった.氷床の幅が狭くなりすぎて湖を閉じ込めさせておけなくなると,湖の水は北大西洋に流れこみ,海水の『塩分含有率』を一気に変化させた.北極海に始まって世界各地の気候をコントロールする,グリーンランド海流という名の海流は,『塩分』による海水の比重の差によって海底の方へ潜る.ところが,そのように大量の淡水が氾濫した時代には,海水の『塩分濃度』が大幅に下がり,極寒の値の海水は以前より軽くなった.そのため,比重の減ったグリーンランド海流は深海へ下降することができなくなり,海面にとどまって消滅し,それによってあらたな氷河期がもたらされた.その氷河期は五千年続き,人類は危うく絶滅するところだった」(『』は筆者) ここの文章には,「塩分含有率」,「塩分」,「塩分濃度」と3種類の表現が出てくる.原文がそうなっているのか,翻訳時にそう訳してしまったのか,私にはわからない.しかし,いずれの箇所も「塩分」で問題なく通じるのである. なお,余談であるが,引用した最後の方に出てくる五千年続いた氷河期というのは,「新ドリアス期」(または,ヤンガー・ドライアス期)のことをモデルにして書かれていると思われる.実際の歴史としては,以下のようになる.前の氷期(ビュルム氷期)が約1万5千年前に終わり,その後急激に温暖化する.しかし,約1万3千年前から1万2千年前までの約1千年間,再び寒冷期(プチ氷期)に戻ってしまうのである.この期間が新ドリアス期である.この出来事は,北米大陸を覆っていたローレンタイド氷床が崩壊して北大西洋に流出し,表層水が低塩化したので,深層水の形成が止み,深層を巡る海水の循環(深層循環)が止まってしまったことが原因,と考えられている. さて,塩分は塩分であって,「塩分濃度」なる表現はおかしい,と主張しているのであるが,どうも世の中の趨勢をみると・・・.変わりそうにないですね.この件,私自身は,諦めの心境にあるのだが・・・. 2007年5月15日記 <追記> 文中で引用した小説「深海の大河」のことである.私は本屋さんで,「海」や「海流」,あるいは「波」など,海にかかわる言葉が小説の題名に使われていると,どんな小説だろうと手にとることが多い.もっとも,「海」に関する言葉を比喩的に使っていることも多く,海とは全く関係ない小説も多いのだが.しかし,この本のように,そのまま海を舞台にした小説であると,ついつい買ってしまう.職業病ですかね,これは.なお,この本の原題はフランス語で,「LE FLEUVE DES ABYSSE」.すなわち,日本語の題名は,原題の直訳であった. website top page |