和算家「関孝和」の没後三百年記念講演会 |
先月中旬(2008年11月15日),キャンパス内にある川井ホールで「関孝和三百年祭記念講演会『和算と東北大学』」が開催された.主催は本研究科の数学専攻である.講演会名に東北大学が入るのは,後に述べるように,本学創立時の二人の数学科教授が和算の研究家であったこと,そのことに密接に関係しているが,本学図書館が我が国有数の和算コレクションを持っていることによる. 主催者の数学専攻長T先生から,この会の2-3週間前,突然電子メールで,その日大学にいるのであれば,会の冒頭で5分くらい研究科長として挨拶してほしい,と依頼された.この講演会の案内は,隣接する県の高校にも送っており,私の母校である山形東高からも,数学の先生と何人かの生徒さんが出席されるから,というのがその理由だった. 冷静に考えると,講演会で挨拶することと,私の母校から参加者があることとは何の関係もないのであるが,私自身,以下に記すように,関孝和や和算に興味を持っていたので,ひとまず承諾した旨の返事を差し上げた. さて,今回の関孝和の「三百年祭」とは,没後三百年を記念してのことである.関孝和は,西暦では,1708年12月5日に亡くなった.一般には,生誕から何年目などとして祝うことが多いが,関孝和の場合,これができないのである.何せ,生年月日が不明なのであるから.出生の地も,上野の国,藤岡,現在の群馬県藤岡市,あるいは江戸と,両説がある.もっとも,藤岡市では,関孝和は藤岡で生まれた,と断固主張しているらしいのだが. 関孝和は,江戸時代の日本が世界に誇る和算家として,とても有名である.小学校や中学校で使う歴史年表にも記載されている.とは言っても,私自身は不勉強で,関孝和に関しても,和算に関しても,特に勉強したことも無く,ほとんど何も知らないような状態であった. それが,今から6年前の2002年に,お茶の水女子大学の数学者で名エッセイストとして知られる藤原正彦先生が,「天才の栄光と挫折−数学者列伝−」(新潮社,新潮選書,254ページ)という単行本を出版された.その中で,関孝和が,ニュートン,ガロア,ラマヌジャン,ハミルトンなどに交じって,9人の中の一人として取り上げられていた.藤原先生が担当され2001年に放送されたNHK教育テレビの番組,「人間講座」がこの本の元となっている. この本,今年9月に,文春文庫の1冊として再び出版された(2008年,289ページ).私は,この文庫本も購入し,再び読んでいたのである.今年の夏,このようなことがあったので,関孝和や和算に興味を持ったのであった. さて,藤原先生の本を読んで知ったことは,関孝和は当時使われていた暦と天体運行が合わなくなるという問題を解消するため,新しい暦を作る目的で,天体の動きを精密に計算し,将来の天体の位置を予想する仕事をした,というものであった.この仕事の過程で,たとえばベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見したり,加速計算法を考案したり,円周率を正確に11桁計算したりと,世界に先駆けていろいろな発見をした.しかし残念ながら,暦の改定の事業は,正確さについてはずいぶんと劣るのだが,渋川春海(しぶかわ しゅんかい)によってなされ,その決定後,関孝和は失意に落ちて,表舞台からは姿を消したことも知った. 関孝和についてこのようなことを知ったのだが,読んでいるうちに,大きく二つの疑問が湧き上がった. 一つ目は,どのような学問分野もそうであるように,数学も先達が成し遂げた業績の上に立って進展する.これが関孝和の場合,どうであったのか,どうもよく分からないのである.すなわち,それまでの和算と関孝和の和算の間には,ギャップがあるように感じてしまうのである.別の言葉で言えば,忽然と,突然変異のように関孝和が登場したように思えるのである. 二つ目は,関孝和が展開した和算が,どうしてその後「体系化」されなかったのであろうか,ということである.建部三兄弟,とりわけ建部賢弘(たてべ たかひろ)など優れたお弟子さんが沢山いて,その後「関流和算」として発展はしたが,「個人技」に走り,体系をなしての発展はなされていないようなのである.江戸時代後期には,和算家が自ら作った問題とその解法を絵馬にして,神社に奉納するようなことまで起こっている.まるで,「芸能」の一部になったかのようでもある. 一方西洋では,18世紀から19世紀にかけて,着々と数学が体系化され,花開いていく.その象徴は,19世紀に入り,続々と設立された「大学」の中で数学者が雇われ,そして数学は自然科学の中でも,中心的な位置を占めていくのである. このような疑問を持ったこともあり,T先生の依頼に応えて挨拶を行うこととした.なぜか,依頼では5分間という時間指定であったが,プログラムには10分間の挨拶となっていた.ともあれ,講演会では,大要上記のようなことを中心にして,挨拶を行った. 講演会には50名ほどの参加者があった.参加者の年齢がとても幅広いことが印象的であった.若い方の関孝和への興味とは,どんな観点であったのだろうか. さて,講演会では,四日市大学の小川束先生を始めとする学外の講師の方や,また,本学の数学科OBの先生の講演,そして本学図書館の事務の方からのコレクション紹介の講演がなされた. 「関孝和の時代の数学」,および「関孝和と消去理論」と題する二つの小川先生の講演から,私は二番目の疑問に対する解答のヒントをもらったように思えた.すなわち,和算をしていた人たちは,その人たちの中だけで閉じていたのである.結局,和算は,「趣味」の域を出なかった.その理由は,西洋のように,数学が具体的に他の学問に使われることはもちろん,実社会で具体的に計算する道具としても使われることが無かったのである. 私自身このように回答を考えたのだが,新たにもう一つの疑問が沸き起こった.すなわち,和算が和算にとどまったのは,渋川春海による暦が採用され,関孝和が落胆し活動をやめたことが原因の一つではなかろうかと.暦改定のときに,関孝和が精密に計算した暦が採用されていたのなら,和算のその後の進展も随分変わっていたのではなかろうか.歴史に「もし」は無いのだが,ふと,そんなふうに考えた. さて,当初講演会には午前中だけの参加と考えていたが,講演のどれもがとても面白く,結局午後も会場に来て,会の最後までお付き合いした.東北大学創立期の数学科の初代教授,林鶴一(1873-1935)と藤原松三郎(1981-1946),お二人とも後に和算の研究者になったこと,そのお弟子さんの平山諦教授(1904-1998)の和算研究にかけた壮絶な一生などを知ることができた.また,東北大学図書館の和算コレクションの内容も知ることができた. 私にとって,とても充実した講演会であった.挨拶はさせられたが,誘ってくれた数学専攻長のT先生に感謝しよう.それにしても,和算とは一切関係ない私に,T先生はどのような意図で挨拶をさせたのであろうか,まったく疑問である. 2008年12月15日記 website top page |