最近読んだ本から(2010年5月) |
最近読んだ本の中から三冊取りあげる.いつものように,本の内容の紹介ではなく,その本にまつわる周辺の話である. 1.丸谷才一著「挨拶はむづかしい」 毎年2回,この「折に触れて」やもう一つの「若き研究者の皆さんへ」の欄に発表したエッセイを,これまでお世話になった20数名の先生方に送付している.この(2010年)4月半ばも,昨年10月からの半年分のエッセイを送った. その後,これもいつものことであるが,何名かの方から,電子メールや葉書,そして手紙で,読んだ感想などを頂くことになる.送付した私にとって,これらの感想を頂けることは大変嬉しいことである. さて,いつも感想を送ってくれる方の一人に,九州大学名誉教授のM先生がおられる.M先生は,日本海洋学会の重鎮であり,私の恩師の研究分野と同じ風波の研究をされてこられた.そしてM先生は,感想とともに,ご自分のエッセイをいつもお返しに送ってくれる. さて,今回のM先生からの電子メールには,丸谷才一さんは「挨拶はむづかしい」(1985年,朝日新聞社,221ページ)という本を出版されていることが書かれてあった. この欄のエッセイ(48)「イヤー,挨拶はたいへんなのです」に,丸谷さんの本「挨拶はたいへんだ」(2001年,朝日新聞社,228ページ)のことを書いた.なんと,この「たいへんだ」は,「むづかしい」の続編だったのである.私の持っている「たいへんだ」の単行本にも,そして文庫本(朝日文庫,2004年,264ページ)にも,そんなことはどこにも触れられていなかったので,25年前に「むづかしい」が出版されていたとはまったく知らなかった. これは一大事,「むづかしい」をぜひ読まなくてはいけない,ということですぐ通信販売大手A社のウェッブサイトで古本を注文した.出版以来だいぶ月日も経っているので,古本屋さんに行っても,とても見つからないだろうと判断したからである. そして注文から2日後に届いた「むづかしい」を早速読んでみた.全部で38編の挨拶が収録されている.そして,巻末には,作家野坂昭如さんとの対談が載っていた.本に所収するため後で付けたのであろう挨拶の題名の後に,ちょっとした解説を入れ,そして挨拶の原稿を並べる,というスタイルも,「たいへんだ」とまったく同じであった. 本の装丁も「たいへんだ」と同じく,和田誠さんが担当していた.カバーには,原稿をしっかり右手に持って挨拶をする丸谷さんが描かれている.ちなみに「たいへんだ」にも,原稿を前に掲げて挨拶している丸谷さんが描かれていた. 挨拶で,この原稿をしっかり握っている姿が評判になり,原稿を集めて本にしようとのプランが生まれ,実際本になった,と野坂さんとの対談で丸谷さん自身が話されていた.もちろん,丸谷さんの挨拶は素晴らしい,との評判があったからこそであろうが, ところで,丸谷さんは会の受付に来たところで,突然挨拶を頼まれることがあるのだそうだ.そのようなときは,「用意ができていないので,恰好のつかないことになると思ひます」(85ページ)と,前置きをして始めるらしい.そして,帰宅後,行った挨拶を思いだして文章にするのだそうだ(野坂さんとの対談).そんなこともあり,突然頼まれた挨拶もきちんと収録されている. さて,通販で購入したこの古本の値段であるが,たったの1円であった.1円で本を購入したのは初めてのことである.もっとも,郵送料は340円もかかったのだが.たった1円でも読んでもらった方が本にとっては幸せだ,という考えからの値付けであろうと想像する.きっとそうであるに違いない. 2.沖方丁著「天地明察」 沖方丁(うぶかた とう)さんの「天地明察」(てんちめいさつ,角川書店,2009年11月30日発行,474ページ:私が購入したのは2010年4月25日発行の第7版)を読んだ.書店でこの本を手に取ったのには,次のように二つの理由がある. 一つ目の理由は,主人公の渋川春海(しゅんかい:この小説では「はるみ」とルビ)を,前から気になっていたからである.というのも,この欄のエッセイ(42),「和算家『関孝和』の没後三百年記念講演会」に記したように,私は渋川春海にあまりいいイメージを持っていなかったのである. 二つ目の理由は,この4月下旬,この本が2010年度の本屋大賞を受賞したことが報じられたからである.本屋大賞とは,書店の店員さんたちが,ぜひ売りたい,ぜひ読んでもらいたい,と推奨する本に贈られる賞である.ちなみに,2004年度の第1回目の大賞受賞作は,小川洋子さんの「博士の愛した数式」であった.私は誰かが何かの賞を受賞したからといって,すぐにその本を手に取ることはないのであるが,本屋大賞はちょっと気になっている賞である. さて,春海にあまりいいイメージを持っていなかったというのは,藤原正彦さんの「天才の栄光と挫折−数学者列伝−」(新潮選書,2002年,254ページ)を読んでいたからである.藤原さんによれば,春海より精度のよい暦を関孝和が構想していたのであるが,関は改暦事業の争いに敗れ,その失意から算術の表舞台から消えた,とのことである.そのようなことから,春海は功名心があり,他人を蹴落とすような人物だったのだろうと,勝手に,それこそ勝手に私は思い込んでいたのであった.実は春海を何一つ知らなかったのであるが. さて,本の内容であるが,これは省略.私がイメージしていた春海とは全く違った個性,すなわち,苦悩し,精進し,前進していく「努力の人」,というスタンスで書かれていた,とだけ記しておきましょう.この本,現代人を勇気づける本である.そしてこの本は実に読みやく,平日の数日間で読み終えることができた. 上記のような私の感想に対して,この(2010年)1月31日の朝日新聞の「読書」というコラムでこの本を紹介した精神科医である斎藤環さんの分析が参考となる.斎藤さんは,「本作における渋川のキャラクターは,おそらくは意図的に変更されている.まるでライトノベルの主人公のような内気で天然の愛されキャラだ」とし,さらに,「(略)時代小説にライトノベル風のキャラ設定がこれほどはまることは予想外だった」と述べる 沖方さんはSFと「ライトノベル」の分野の作家なのだそうだ.ライト(まさに「軽い」という意味だろう)ノベルなる言葉は知っているが,実際,どんな小説を指すのだろう.ライトノベルと自称,あるいは他称している本を読んだことがないので,普通の小説との違いがわからない.そのような区別は意味があるのだろうか.どう小説を分類しようと,その本から読者が何を得たか,何を考えたか,が一番大事だと思うのだが. さて,ここまでで話を閉じていいのであるが,気になったところを一箇所. 最後の方の460ページから461ページに,京都の梅小路で「北極出地」を行う場面がある.北極出地とは,北極星の高度を測ることでその場所の緯度を求めることである.その数値が,「三十四度八十七分十二秒」とか,「三十四度九十八分六十七秒」とある.通常,緯度や経度の表現は60進法を採用しているので,60を超える分や秒はありえない.しかし,こうもどうどうと書かれると,江戸時代は100進法で緯度を表現したのだろうか,などと思ってしまう. ちなみに,地図上で場所を示すと緯度や経度を出してくれるウェッブサイトで,京都駅近くにある梅小路公園の緯度を調べてみた.この場所の緯度は,北緯34.9865度であった.この度で表した数値であるが,上記の後の方の数字と似ていませんか.ちなみに,分や秒を使って表すと34度59分11秒となる.著者は何か勘違いしている,と思うのだが・・・. 3.村上龍「すぐそこにある希望」 しばらくぶりに村上龍さんの「すべての男は消耗品である」シリーズの9冊目,「すぐそこにある希望」(幻冬舎文庫,2010年4月,156ページ)を読んだ.村上さんは経済に関心があるなど,当たり前であるが,私の興味とは完全にオーバーラップしていないのだが,同年代(同年生まれ)の考えを知るには格好のエッセイ集である. さて,このシリーズのエッセイ集を何冊か読んでいるが(この欄のエッセイ(25)「中田選手は今どうしているの?」でも取りあげた),前から気になっていたことがあった.それは,前の文章を受けて,「誤解しては困るが,・・・」や「誤解しないで欲しいが,・・・」,「勘違いしないで欲しいが,・・・」などと続ける文章がやたら多いことである. さて,私はまったく存じ上げない方であるが,この文庫本の解説者はキャリア・カウンセラーの小島貴子さんである.この解説文の中に,上記の表現のことを紹介しているので大変驚いた.少し長くなるが,その部分を引用する. 「村上龍は,社会を理解するために『文脈』と『問い立てる』ことの重要性を繰り返し言っている.このエッセイの中で彼は何度も『誤解しないでほしい』という断り書きを入れている.それは,彼の保身ではなく,彼はたぶん誤解など恐れてはいないだろうが,ただ読者が彼の書いたまま受け入れるか,または,単純に拒絶するような読み方をする可能性がありそうなので,『敢えて!』という丁寧なコメントを入れることで更に一歩踏み込んで考えてほしいというメッセージだと私は感じている.何故ならば,彼の『誤解しないでほしい』というコメントがなければ,私は『単純に誤解する読者』なのだから(そう,村上龍は,実に誠実で丁寧な人間なのだ)」. 小島さんは,村上さんのよき理解者のようです.私自身は,このような文章に出会ったとき,だったら誤解や勘違いなどされないように表現すべきでないか,などと突っ込んでいたのだが. 2010年5月15日記 website top page |