徒然なるままに(2010年8月) |
1.その「ハンド」,これはいけません この(2010年)6月から7月にかけて南アフリカで開催されたサッカーのワールドカップは,スペインの優勝で幕を閉じた.このワールドカップ,終わってからもいろいろ考えさせられることが多かった. 開催期間中,ドイツのある水族館のタコ「パウル」君が,試合結果を占い,占った8試合のすべての勝者を当てた,ということが話題となった.偶然以外の何物でもないが,メディアはパウル君によくも注目したものである.この話はご愛敬. アルゼンチンのマラドーナ監督も話題となった.あの派手なパフォーマンス,とりわけ,選手たちとのハグとキスは,違和感がありました.試合後の記者会見で記者からこのことを問われると,「私は女性が大好きです」とのとぼけた回答,これにはうなりましたが.しかし,マラドーナ監督,残念ながら,帰国後に代表監督を解任された. 肝心のサッカーの試合であるが,重大な誤審が話題となった.決勝ラウンドのイングランドとドイツとの試合では,イングランドのボールがゴールラインを確かに超えているのに,再び外に出たためか,ゴールとは判定されなかった.また,同じく決勝ラウンドのアルゼンチンとメキシコの試合,アルゼンチンの攻撃は明らかにオフサイドだったのだが,これも,オフサイドとは判定されず,ゴールが認められた.人間がやる限り,誤審はつきものです. さて,誤審ではないのだが,私にとって,大いに気になるプレーがあった.それは,7月2日(金)に行われた準々決勝,ウルグアイとガーナとの試合で起こった.延長,それも後半の終了間際,ガーナの選手が蹴ったボールがゴール目がけて飛んでいった.ところが,ゴールライン間際で守っていたウルグアイのスアレス選手が,ハンドでこのシュートを阻止したのである.このハンドがなければ,確実にゴールとなったはずだ. この行為に対し,主審はスアレス選手にレッドカード,一発退場を命じ,ガーナにペナルティキック(PK)を与えた.当然の措置である.そして,その後のガーナの悲劇は,皆さんご存知の通り.ガーナはこのPKを外し,試合は延長戦でも決まらず,PK合戦となり,ガーナは敗れた. ハンドをしたスアレス選手は確信犯である.実際,ピッチから去り,通路で見ていたスアレス選手,PKが外れや否や,やったとばかり,小躍りして喜んでいた.この場面,テレビカメラがしっかりと捉えている.ウルグアイに勝利をもたらしたスアレス選手は,母国では英雄とのことである. さて,スアレス選手のこのハンド,確かに戦法的にはあり得る.なぜならば,まさに現実となったように,PKで点が入らない可能性が,一般にはごくごく低い確率であるが,出てくるからである. 7月4日(日)朝のTBS番組「サンデーモーニング」の中で,ラグビーに詳しく,自身もプレーする写真家の浅井慎平さんは,「それも(スアレス選手の行為も)含めてサッカーである」と論じていた.浅井さんは,このハンドをサッカーでは許されるプレーと肯定的に捉えているようだ. 私自身は,このような故意のハンドに,ラグビーの「認定トライ」同様,「認定ゴール」制度を導入すべきであると考える.これを機に,ルール改正まで議論してほしいとまで願っている.そうでなければ,「紳士のスポーツ」であるサッカーは,今でも相当遠いと思うが,ますますその理想から遠ざかってしまう. 「オフサイド」だって,もともとはルールになかったのである.サッカー界は,「待ち伏せ攻撃」は,「紳士にあるまじき,卑怯で汚い戦法」ということで,このルールを導入した.同じように,ゴール前の故意のハンドに対しては,認定ゴール制を取り入れるべきである.サッカーは紳士のスポーツである,とこれからも主張するのならば. 2.骨の折れた話 この(2010年)7月9日の金曜日,出張のため東京に出かけた.そして翌土曜日に親戚の結婚式に出ることになっていたので,そのまま東京に宿泊した.その週は梅雨末期にあたり,そちらこちらで局地的な集中豪雨となり,大きな被害も出ていた. 金曜日の夕方は,東京も大雨となった.チェックインした品川のホテルから,家族を品川駅に迎えに行くため,坂道となっている道路を歩いていった.ちょうど坂道が終わる辺りに,下水溝の上にかけられた網目上の金属板があった.不注意にもそれに滑り,仰向けになって腰を強打したのである. その日は,背中に痛みを感じながらも,家族で食事をしたあとホテルに戻った.そのまま寝たのだが,翌朝4時半ごろに目が覚めてしまった.そこでベッドから起き上がろうとするが,全く腰が動かない.腰が立たないとは,このようなこと,と初めて知った.さて,困ったということで,朝早かったのだが家族を起こすことにした. 家族との話の結果,前夜腰を打っていることが原因であるのは間違いないので救急車を呼ぼうと,連れ合いがホテルのフロントに相談しに行った.しかし,まずは整形外科の先生が宿直している緊急外来を持つ病院を探そうということになり,ホテルの方がほうぼうに電話をしてくれた.有難いことである.そして,しばらくして,東京都立H病院に整形外科のお医者さんがいるとの連絡があった.病院には,タクシーで駆けつけた. レントゲン検査,触診,CTスキャンによる検査を経て,結局,第一腰椎の「横突起(おうとっき:腰椎から左右斜め後ろに飛び出している小さな一対の骨)」が折れていることが分かった. この骨折の直接の治療法はなく,放っておくよりしょうがないとのことである.湿布薬を貼り,コルセットで固め,後は痛み止めの薬を飲む.ところでこのコルセット,大変優れ物で,本当に‘びしっ’と決まる.2時間ほどして病院から帰るときには,車椅子も必要とせず,歩ける状態になった. その日の午後,親戚の結婚式に出て,そして家族と別れ一人で仙台に戻った.新幹線で移動中も,コルセットをしている限り,痛みはほとんど感じなかった. さて,翌日曜の午後,恐る恐る車を運転したのだが,痛みもなかったので,溜まった電子メールなどの処理をするため大学に出た.翌月曜も,朝から一日中東京出張が予定されていたのである.このとき,皆さんに黙っているのも悪いと思い,メールで事務部長をはじめ,事務部の一部の方々に骨折のことを伝えるメールを送っておいた. さて,月曜の出張を終え,火曜の朝大学に出たところ,事務部の会う人,会う人から,骨折はいかがですか,との問いかけを受けることとなった.何故皆さんが知っているのだろうと不思議に思ったのだが,後に,私のメールが,事務部全体に共有されていることを知った.これも,大変有難いことである. さて,骨折はその後順調に回復していった.1週間もするとコルセットを少しの時間,外せるところまでになった.そして,骨折の約10日後,午後に定例の教授会が,夕方には教授懇談会が開催されることになっていた.懇談会では,私は部局長として挨拶することになる.この骨折,研究室にも,そして周囲の教員にもあまり話をしていなかったこともあり,挨拶ではこの骨折の話を入れることとした.挨拶の大要は,次のようなものである. 歴代の研究科長を見ていて,研究科長職は大変骨の折れる仕事だと思っていた.実際,S先生やH先生が研究科長のとき,副研究科長としてすぐそばで仕事をご一緒させてもらったが,確かにそうであった.そして,私もこの職について,まさにそうだ,骨の折れる仕事だ,と実感したものだった. ところで私は,10日前,東京へ出張したとき,滑って腰を打ってしまい,本当に骨を折ってしまったのである.まったく,シャレにもならない,とはこのことだ. 病院に行き,診察を受けた.レントゲン写真を撮り,そしてCTスキャンまでして,「第一腰椎横突起骨折」なる診断となった.さてこのとき,担当の医者が,「骨折には,お酒は悪いのでなるべく控えるように」と言ったらしい.言ったらしい,というのは,私には言われた覚えがまったくない,聞こえていないのである.一緒に診察室に入っていた私の連れ合いが,確かにそう言った,というので,そうなのだと思わざるをえない. このことで思いだすのは,ローマ帝国の初代皇帝,ユリアス・カエサルのことである.カエサルは,「人間ならば誰にでも,現実のすべてが見えるわけではない.多くの人は,見たいと思う現実しか見ていない」と喝破した.この言葉,さすがカエサル,けだし名言である. さて,今回の私の経験,カエサルの表現を借りれば,「人間ならば誰にでも,現実の声すべてが聞こえるわけではない.多くの人は,聞きたいと思う声しか聞いていない」ということになろう.確かにそうなのだ.私も多くの人の中の一人であることを,これで証明されたようだ. つまらないことを話したが,言いたいことは,私はお酒が大好きで,いつでもお酒とは仲良くしたいということである.そして,楽しい会話は,お酒の良き肴,良き友なのである.教授会でも話したように,大学を取り巻く情勢は大変厳しいものがあるが,この懇談会では,ひとときそれらを忘れて,お酒を皆さんとの楽しい会話とともに楽しみたいと思う. 2010年8月15日記 website top page |