原子力発電所の事故に思う |
「わが国も含めて,世界中の多くの国々が温暖化対策の切り札の一つと考えているものに,原子力発電がある.一時は原子力発電離れしていたヨーロッパ各国も,原子力発電利用へと急速に回帰している.しかし,私自身は,温暖化対策として原子力発電に頼ることは間違いではないかと考えている. いくつかの理由を挙げたいが,その一つ目は,原子力発電は未だ確立した安全な技術ではないことである.この中には,放射能漏れとその人体への影響の問題や,そして,人間は必ずミスを起こしてしまう,ということも含めている.二つ目は,原子力発電はエネルギー的にも経済的にも割が合わないからである.原子力エネルギーを使用すれば,化石燃料の消費を抑えることができる,というのも疑問である.発電所の建設,燃料となるウランの掘削,その運搬と濃縮,そして廃棄物や廃炉の処理など,膨大な化石燃料を使わなくては,原子力発電を維持できない.実際,原子力発電のコストは,化石燃料のそれと大きくは変わらないのである.そして,三つ目は,その役目を終えた廃炉の管理がある.放射能レベルが安全になるまでに,少なくとも数百年(高レベル廃棄物では数万年)以上もの長い間,半永久的とも言えるほどに,廃炉を適切に管理しなければならない.特にわが国は,大きな地震が繰り返し起こる地域に位置するので,廃炉の管理は後世に回す大きなツケなのである. 既存の五十基を超える稼動原子炉の廃止を主張するものではないが,これ以上の原子力発電所の建設には反対したい.私たちはすでに,ツケを回しているのであるが,現在の私たちの生活水準を守るためとして,さらにこれ以上のツケを後世に回したくないものである. 」 上の文章は,今から3年前の2008年6月に発行された「アンジャリ」(親鸞仏教センター)第15号の巻頭に掲載された「温暖化と私たち」と題する私の原稿の一部である(pp.1-4).地球温暖化に関する原稿であるが,一般に「原子力発電は温室効果気体を出さないので,地球温暖化対策の切り札である」とうたっていることに対する私の意見の表明であった.この節には,「原子力発電は切り札だろうか」との小題を付けた. 今年(2011年)3月11日の地震「東北地方太平洋沖地震」(M9.0)による激しい揺れと,地震で発生した巨大津波が,東京電力福島第一原子力発電所を襲い,1号機から4号機までの原子炉が制御不能となり,大量の放射性物質が外部へ漏れた.地震後既に3カ月を経ている現在も,原子炉はまだまだ不安定な状態にあり,今後の推移も予断を許さない. 私自身は冒頭の文章のように書いていたが,まさかわが国の原子力発電所が制御不能な状態に陥り,複数の原子炉で燃料棒がメルトダウンするとは思ってもいなかった.その意味で今回の事故は,私自身の「想定外」の出来事であった. さて,この事故により大気と海洋へ漏れだした放射性物質の量は,国際原子力事象評価尺度の最高レベルである「レベル7」と認定されるように,過去最悪の規模に達する恐れがある.このような事態にいたり,原子力発電の是非に対する大きな議論が,国内でも,国外でも巻き起こっている. ドイツでは,化石燃料の消費を減らすには原子力発電(以下,原発と表記)が有効であるとの考えから,いったん発電所の稼働の10年間延長する政策を決めていたが,現政権は,すぐこの措置を撤回すると発表した.わが国では,政府が東海地震の推定震源域の中に位置する浜岡原子力発電所の稼働停止を要請し,中部電力はこれを受諾した. 報道等を見ていると,原発に対する国内の世論は,三つの考え方に分かれているようである.まず,一つ目は,すべての原発を即時停止し,廃炉にするとの考え方である.二つ目は正反対の意見で,地震や津波に対する対策をさらにしっかりと行ったうえで,原発をこれまでと同様,あるいは今以上に推進しようという考えである.三つ目はそれらの中間の考え方であり,既存の原発は動かせる期間は動かすものの,新規建設はすべて取りやめ,ゆくゆくは再生可能なエネルギーのいっそうの導入により,エネルギーの原発依存から脱しようというものである. 現在のわが国の世論は,上記の三つの考え方を振り子のように大きく揺れ動いているようだ.しかし,原発推進派も原発反対派も,相手方への説得の切り札を持っていないようでもある.これからも長くこの論争が続くであろう.この中で,国民一人一人がどの選択肢を妥当とするのか,問われる続けるのではなかろうか. 私たちは何をよりどころに選択すべきなのであろうか.ここに,人それぞれの価値判断が出てくる.わが国は世界の経済大国である続けることが重要なのだ,との観点からは第2の選択肢となる.ちょうど現在(6月上旬)は,この考え方に基づく主張が,特に経済人と呼ばれる人から声高に叫ばれている.現在の政権もこの考え方を表明している さて,私は,冒頭に引用した文章「温暖化と私たち」の最後を,「おわりに」と題を付して,次のような節で締めくくった. 「温暖化問題は,極めて『グローバル(全世界的)』な問題である.地球上の生きとし生けるものすべてが影響を受けるという意味で,かつて経験したことのない厄介な問題なのである. 温暖化問題に限らず,酸性雨などの環境汚染をはじめとする,さまざまな問題が叫ばれているなか,私はときどき『死に急ぐ人類』などと思えてしまう.行きつく先を知りつつも,人類は破滅に向かって急ぎ足で進んでいるように思えるからである. しかし,諦観(ていかん)はもっともいけないことであろう.ここが,踏ん張りどころ,知恵の出しどころ,と考えるべきなのであろう.このような状況を作り出したのが私たちであれば,解決するのも私たちであり,解決できるのも私たちしかいないのだと. いずれにしても,私たちは,もっとゆっくりと歩きながら考えることが必要ではなかろうか.どのような文明が,それが大げさであれば,どのような生活スタイルが,私たちにとって望ましいのかと.」 私がこの部分で述べたことは,今でもちっとも変っていない. 付記 アンジャリに掲載された「温暖化と私たち」の全文は,次のURLに掲載されているので,ご覧になってください.最初の方に編集ミス(同じ文章が二度出てくる)があるのだが,お許し願いたい. http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/publish/publish01_number15.html 2011年6月15日記 website top page |