お二人の訃報に接して |
1.挨拶の名手,丸谷才一さん この(2012年)10月14日(日)の朝刊で,丸谷才一さんが前日の13日に亡くなったことを知った.山形県米沢市内にある一軒宿の温泉に宿泊した朝のことである.滞在中,ゆっくり休んでくださいとの配慮からであろう,この宿のどこにもテレビもラジオもない.そんなわけで,朝刊を見るまで,丸谷才一さんが亡くなったことをまったく知らなかった. その日以後,新聞各紙には丸谷さんを悼む,惜別の記事が数多く掲載された.それらの多くが,丸谷さんが挨拶の名手であったことを取り上げていた.丸谷さんの挨拶はとても短く,原稿を片手に持って,一字一句間違わないように読むのだという.このようなことから,挨拶の原稿が残っているので,丸谷さんの挨拶を収めた本が,これまで3冊も出版されている. その3冊をここに記しておきたい.いずれも出版社は朝日新聞社. 1. 「挨拶はむづかしい」,1985年9月15日,221ページ 2. 「挨拶はたいへんだ」,2001年6月1日,229ページ 3. 「あいさつは一仕事」,2010年9月30日,245ページ 3冊目の題名は,「挨拶」ではなく「あいさつ」.これは挨拶が読めないだろうとの配慮から,とこの本の最後に収められた和田誠さんとの対談の中にある.和田さんはこれら3冊の装丁を担当した.さて,お二人の対談の中に次のようなやり取りがある. 和田「(略)このシリーズ,一冊目は『挨拶はむづかしい』,次が『挨拶はたいへんだ』,三冊目が『あいさつは一仕事』です.題名を辿ると,挨拶はむずかしくて大変で一仕事だということになりますが,挨拶のベテランでいらっしゃる丸谷さんにとっても,やはり大変なものでしょうか.」 丸谷「ひとつにはね,挨拶はたいへんだとも,むずかしいとも,一仕事だとも何とも思わないで,ただ出ていってダラダラしゃべってみんなを困らせるという,そういう偉い人が多いでしょう.だからそうじゃないんだよと,聴いているほうとしては大変だし,むずかしいし,一仕事何だよと」. さて,10月16日(火)の読売新聞に,小説家辻原登さんによる丸谷さんの追悼記事が掲載された.その記事に面白いエピソードが書かれていたので紹介しよう.今から14年前,辻原さんが1998年度にある賞(読売文学賞のことらしい)を受賞したときの,授賞式後のパーティと二次会での話である.パーティで辻原さんの前に挨拶に立ったもう一人の受賞者が,主催者から3分間と念を押されていたにもかかわらず,20分以上も話していたのだそうだ.次に挨拶をした辻原さん,用意していた内容をきっちり3分間で終え,壇上から降りたという. 二次会で辻原さんは,遅れての参加だったので,この賞の選考委員であった丸谷さんの隣に座るはめになった.着席するや突然,丸谷さんの大声が響き渡った. 「きみのあの挨拶は何だ!ああいうスピーチのあとは,ありがとうございました,のひと言で引き下がるべきだ.それが批評というものだ.きみには全く機知も批評も欠如している」と. 丸谷さんは本気で怒っていたのだという.辻原さんは,最初しょげ返ったが,やがて大きな喜びに変わったのだそうだ.「丸谷さんの怒りは正しいし,その言葉は丸谷文学,いや文学そのものではないか.喜びが感謝の念に変わった」と. 10月21日(日)の地元紙河北新報には,文芸評論家の三浦雅史さんが,「丸谷才一さんを悼む」と題する文章を寄稿していた.その中の一節である.「丸谷さんは挨拶につねに原稿を用意されたが,そのユーモアは実に巧みで,丸谷さんの挨拶があるかないかで会合に出席するかどうかを決めるものさえいたのである」.そうでしたか,丸谷さんの挨拶の有無が,出欠の判断にまでなっていたとは驚きました. さて,現在の私の仕事の中でも挨拶は大きな部分を占める.実際この10月下旬,1週間の間で3回も挨拶をしなければならなかった.丸谷さんの挨拶とは「月とすっぽん」,到底比べられるものではないが,まずは長くならないよう,気をつけたつもりである.挨拶は,難しく,大変で一仕事なのです. 2.豪快な笑い,青田昌秋さん この(2012年)10月29日(月),片平キャンパスの部屋で朝刊を見ていたところ,死亡告知欄(この表現でいいのだろうか)で,紋別市にある北海道立オホーツク流氷科学センター所長の青田昌秋さん(北海道大学名誉教授)が,27日に亡くなられたことを知った.享年74歳,食道がんだったという.すぐ送れば通夜と告別式に間に合うとのことで,弔電を手配した. 青田さん(と呼ばせてもらう)との出会いは,はっきりとは覚えていない.どのようなきっかけだったのだろう,一緒に何かのプロジェクトをしたことも,何かの委員会でご一緒したこともない.それでも随分前から,学会などでお会いすれば,いつもニコニコ顔の青田さんと話をしてきた.何と言ってもその豪快な笑い,その笑いがとても印象的で,良かったですね. さて,出会いであるが,振り返ると,恐らく次のようなことがきっかけではなかったろうか.1984年,私は日本海洋学会沿岸海洋研究部会が発行する「沿岸海洋研究ノート」に,「沿岸境界流」という総説を書いた(22巻,1号,67-82ページ).沿岸境界流とは,北半球では,岸を右手に見て流れる海流のことである.それまではその様な用語はなかったが,沿岸境界流なる概念で整理すれば,事の本質が見えて有益ではないかと主張したのである.日本近海では,対馬暖流,それに続く津軽暖流,宗谷暖流などがこれにあたる. 青田さんは,長年,紋別市にある北海道大学附属流氷研究施設に勤められ,1983年から定年退官される2002年まで,施設長を務められた.そのような経歴なので,青田さんはオホーツク海の流氷に関する研究により流氷研究の第一人者と紹介されることが多い.しかし,宗谷暖流の研究も随分行っているのである.実際,青田さんの博士論文は,そのものずばり「宗谷暖流の研究」である(博士論文は,「低温科学,物理篇」に1975年に印刷されている). 先の総説が印刷された後,青田さんたちの宗谷暖流の論文に,それが引用されたことは知っていた.ということで,おそらく,総説に関連して青田さんから話しかけられたのがきっかけでお付き合いが始まったのだと思う. 青田さんは,東京大学名誉教授の永田豊先生とご一緒に,1986年に北方圏国際シンポジウム,通称「オホーツク海シンポジウム」を開催した.以後,このシンポジウムは現在まで続いている.当初,青田さんからは毎年のように参加のお誘いを受けたのだが,これまで一度も参加する機会がなかった.理由は,このシンポジウムは2月上旬に行われるのだが,いつも修士論文や博士論文の審査の時期と重なってしまうからである.とても残念なことであった. さて,これはこの欄(No. 47-1,2009年5月15日)にも書いたことだが,青田さんは渡辺淳一さんの小説「流氷の果て」(最近の文庫本で紹介すると,(株)集英社,2009年1月25日,534ページ)の主人公,「紙谷誠吾」のモデルである.青田さんをモデルに紙谷誠吾を書いたことは,渡辺さんのエッセイ集,「北国通信」((株)集英社,1987年6月25日,264ページ)の中の「紋別まで」(117-121ページ)に書いてある. 先のエッセイにも書いたのだが,青田さんは知る人ぞ知る,名エッセイストであり,日本エッセイスト・クラブが毎年選考しているベストエッセイ集に2度も選ばれている.その1編を私が読み,感想を青田さんに書いたところ,青田さんからは実はもう1編あるといって,返事と本とが送られてきた. そのことがきっかけで,私が書いているエッセイを青田さんにも送ることとなった.送るたびに礼状などを貰っていたのであるが,あるとき,オホーツク流氷科学センターの友の会である「流氷倶楽部」が毎年2回発行している「流氷倶楽部通信」に,私のエッセイを掲載したいとの申し出があった.この申し出に対し,私はもちろん快諾した.掲載されるエッセイは,青田さんが選んでくれるという. 私のエッセイの欄は,「海洋学者のつぶやき」と題された.最初のものは,「プロとして・・・」(24号,2006年2月)であった.以下,「ジグソーパズルと『my ocean』」(25号,2006年11月),「『悪法も法なり』だが・・・」(26号,2007年2月),「待機電力の節約効果」(27号,2007年11月)と続き,最後が「海洋学における業界用語」(28号,2008年2月)であった.3年間で計5編,掲載されたことになる. 青田さんが食道がんに侵されていたことはまったく存じ上げなかった.毎年,年賀状の交換をしていたのだが,最近はお会いする機会もなくなっていた.青田さんを集中講義にお招きしたことなど,まだまだ書き足りないのだが,この辺りで筆を置くことにしよう.青田さん,どうぞ安らかにお眠りください,合掌. 2012年11月10日記 website top page |