二度目のメルボルン大学訪問記
この(2012年)12月5日(水)から9日(日)までの5日間,オーストラリアのメルボルンを訪問した.機内で2泊,ホテルで2泊の,とても慌ただしい海外出張であった.同じ理事という立場でも,私以外の方はかなり自由に海外へ出張しているようだが,私はその所掌する事項の関係で,海外出張もままならない.これが今年初めてで,そして最後の海外出張となった.

さて出張の目的は,メルボルン大学が4年前の2008年から行っている新しい学士課程教育の現地調査のためであった.この新たな試みは「メルボルンモデル」と呼ばれており,現在オーストラリア国内はもちろん,世界の高等教育界で大きな注目を集めているという.

大学教育改革は,世界中でもそうだろうが,特に我が国では大きな課題となっている.社会や経済の情勢がめまぐるしく変わる中で,大学が輩出する人材に期待するがゆえに,大学教育の在り方が問われているのである.

今回の調査団は,高等教育開発推進センターのH教授を中心として,センター長のKi教授,S准教授,Ko助教,T助教,そして私の6人からなる.現地調査ではメルボルン大学のキーパースン3名の方と面談した.私たちは事前の打ち合わせで調査のポイントを議論し,先方に質問項目を予め伝えていた.そのため,先方も回答を準備しており,きわめてスムーズに,密度の濃い議論をすることができた.この調査の肝心の部分については,別途センターの方で報告書を作ることになっているのでそちらに譲りたい.

さて,ここからはこの旅行での個人的な体験や感想である.数えてみると,メルボルンを訪れたのは,これで6回目である.このうち1回は家族旅行で,残りの5回は研究集会などへの出席であった.初めてのメルボルン訪問は,26年前の1986年12月のことであった.このとき,メルボルン大学を訪問している.

<最初のメルボルン大学訪問>

1986年11月下旬,私はオーストラリアでも熱帯に位置するタウンズビルのジェームズクック大学で開催されたWESTPACと呼ばれる研究発表会に参加した.当時東京大学海洋研究所所長であった根本敬久先生(故人)が,このWESTPACに私を含めて何人かの若い研究者を招待したのである.このとき私は34歳,3回目の海外出張であった.11月29日から12月15日までの17日間の出張である.

このWESTPACで,私は「モード水」(海洋表層に存在する特徴的な水の一種)に関する研究発表を行った.モード水は,北大西洋や北太平洋では存在するのに,何故南太平洋では存在しないのか,と問題提起した講演であった.私のこの問いに関し,オーストラリアのマシアス・トムチェック博士は,南太平洋の風の場が,北半球のそれとは異なり,海洋構造も違うからではないのか,と答えてくれた.当時,南太平洋にモード水の存在は知られていなかったのである.

しかし実際には,この後1993年にディーン・レミック博士たちが,南太平洋にもモード水が存在することを発表した.さらに私たちも,T君の修士論文でモード水が存在することを追認し,さらに詳しく分類すれば,3種類存在することを突き止め,2007年に学術誌に論文を発表した.

話が横道にそれてしまった.さて,このタウンズビルでの研究集会の後,私は皆と分かれ,メルボルンに移動した.メルボルン大学で気候変動に関する国際シンポジウムが開催されることになっていたので,わがままを言ってメルボルン訪問もお願いしたのであった.このシンポジウムには世界各国から200名程度出席していたのではなかろうか.基調講演は,カオスの理論で著名なMITのエド・ローレンツ博士(故人)であった.また,このとき以来現在まで,親しくお付き合いしているオーストラリアCSIROのゲイリー・メイヤーズ博士に初めて会ったのも,このシンポジウムである.実は,メルボルン滞在中に私の祖父が亡くなったこともあり,この訪問は特に印象深いものであった.

<パブリック・レクチャー・ルーム>

今回の調査の二日目の午後,メルボルン大学の幾つかの施設を見学する時間が設けられた.図書館や,講義室,視聴覚教室,実験室などを見せてもらうツアーである.このツアーで最初に案内してもらったのが,パブリック・レクチャ―・ルームであった.本部事務部門がある一番古い建物にある.ところでメルボルン大学の創立は1853年であり,オーストラリアでは1850年創立のシドニー大学に次いで2番目に歴史の古い大学である.

このパブリック・レクチャー・ルームに入った途端,思い出したのである,そう,26年前の国際シンポジウムの会場が,この部屋だったことを.小柄なローレンツ博士の,格調高い講演を,この急な傾斜の階段教室の,正面に向かって中段の右端の席に座って聞いた.

このようなことを,案内してくれたメルボルン大学の人に伝えたのは言うまでもありません.

<セイント・ヒルダ・カレッジ>

最初のメルボルン大学訪問のときの宿は,街中のホテルではなく,大学キャンパス内にある寄宿舎「セイント・ヒルダ・カレッジ」であった.研究集会は12月,大学は既に夏休みであり,学生たちはキャンパス内にはいなかった.セイント・ヒルダ・カレッジにも学生はおらず,私のようなシンポジウム参加者に部屋は貸しだされていた.

オーストラリアは英国連邦の国であり,英国スタイルがそちらこちらに残っている.この大学内にあるカレッジ群もまさにそうである.朝食はカレッジ内の食堂で一堂に会して食べる.ハリーポッターの,例の食事風景である.

最初の朝食時のことである.食堂に行くと既にかなりの人がいた.私は,端の方の空いている席に座った.するとすぐさま,眼の前に一人のアジア系の人が席に着いた.もちろん,挨拶するのがエチケットであるので,お互いに英語で名乗った.どちらが先に名乗ったのかは忘れたが,相手の人は「余田(よでん)です」と,そして私は「花輪です」と.

会ったことはなかったが,お互い,名前は知っていた.そう,次からは日本語です.「あなたが花輪さんですね」と余田さん,「あなたが余田さんですか」と私.余田さんとは,京都大学の気象学講座の余田成男さん(当時,助教授,現教授)のことである.余田さんはその年,米国ワシントン大学のジム・ホルトン教授(故人)のところに留学しており,米国からの参加であった.このとき以降,余田さんとは,日本でというよりは海外で何度もお会いすることになる.

さて,今回の訪問で,このセイント・ヒルダ・カレッジを再び“眺める”ことを楽しみにしていた.今回のメルボルン三日目は帰国の日であるが,夕方からの移動であるので,時間が取れる.そこで,メルボルン大学の北の端,クイーンズ・カレッジの隣に位置しているこのカレッジの周辺を散歩した.道路に面した表側はこんな感じだったかな,とも思うのだが,裏側は新しい建物が加わっていた.

セイント・ヒルダ・カレッジの南側には,とても綺麗な芝生が広がっていたとの記憶があるのだが,今回散歩してみると,そこにはクリケット競技場,さらにその南側には陸上競技場があった.当時もそうであったのか,その後このような施設が整備されたのか,私は判断できなかった.

<地震で知った携帯電話の「進化」>

二日目の夕食時のことである.メルボルン大学の3名へのインタビュー取材も無事終わったので,皆で中華料理を楽しもうと街中のチャイナタウンに出かけた.1年間,メルボルン大学に留学していた助教Koさんの案内である.チャイナタウンは,CBTと略されるメルボルン中心街にある.残念ながら当初目指した評判の高い店は満席で入れなかった.そこで,別の店に入ったのだが,この店のうるさいこと,うるさいこと.

うるさい店は私の大の苦手,というより大嫌いである.私は,常に耳鳴りがしているし,さらに悪いことには,相手の声のみを聞き取ることが苦手なのである.多くの人は,騒々しい中でも,聞き取りたい相手の声のみを聞きとる能力を持っている(と思う).私にはこの能力が全く欠けているのである.ということで,私だけの意見でもなかったのだが,早々にこの店を退散することとした.

次の店を私が決めろという.そこで,迷わずでもなかったのだが,同じくチャイタウンにある日本料理のY屋さんに行くことにした.

さて,席に案内されて間もなく,現地で午後7時半ごろであろうか,突然,複数の携帯電話が鳴りだした.宮城県でマグニチュード7.3,震度5弱の地震が起こり,沿岸域には最大高1mの津波警報が出ているという(地震は日本時間午後5時18分に発生).Ki先生は,海外でも使える携帯電話を持っているので,すぐさま大学本部へ電話をかけた.その結果,被害などは全くなく,心配ないという.他の人も日本に電話をして確認していた.皆さんの情報では,被害などはまったくないとのことだったので,その後は安心して夕食を楽しんだ.

さて,我が携帯電話のことである.携帯電話は私物と大学かの支給品,二つを持ってきていた.が,まさか海外対応しているとは思わなかったので,バックに入れっぱなしであった.食事を終えてホテルに戻り私物の携帯電話を取り出したところ,待ち受け画面にはオーストラリアの時間と日本の時間が横並びで出ているではないか.そうGPS機能が働いて,自分がどこにいるのかを,認識したらしいのである.もちろん電波の強さを示すバーも,きちんと3本立っている.

そうだとしたら…ということで,おそるおそる我が連れ合いに電話をかけてみた.これが通じるではありませんか.へー,我が携帯,なかなかやるじゃないかと,感心した次第である.大学から支給された携帯電話の方も同じように機能するようであった.皆さんにとっては何を今さらとお思いでしょうが,この携帯電話の「進化」,はい,私にとっては大きな驚きだったのです.

<メルボルンの気温変化>

今回のメルボルン訪問初日,12月6日の最高気温は22度C,翌7日の最高気温が27度C,そして最終日,8日の最高気温は37度Cであった.中2日間で,15度Cもの気温上昇,いやー,いつもながら,メルボルンの気温変化は激しい,の一言である.

この大きな気温変化の理由は単純である.南半球では発達した高気圧と低気圧が,交互に並んで東進することが多い.高気圧はやや北側に,低気圧はやや南側に中心部がずれるが,おおよそ南緯40度付近を通過する.メルボルンは南緯38度付近であるので,高・低気圧の中心部に近い.そのため,東に高気圧,西に低気圧があるような配置では,強い北風が吹き,オーストラリア大陸上の暖かい空気塊がもたらされ,気温は著しく上昇する.一方,その逆の配置では,強い南風が吹き,南大洋(一般には南極海あるいは南氷洋と呼ばれるが,学術用語としては南大洋が使われる)の冷たい空気塊がもたらされ,気温は著しく低下する.私たちがメルボルンを訪問した6日から8日にかけては,まさに高気圧の中心が西から東へと移動していたときに対応していた.

ところで,私たちが仙台に戻ったのは12月9日(日)の昼ごろである.この日の仙台は北風の強く,雪も舞っており,気温は零度C前後であった.前日との気温差は実に40度Cに達するものであった.なお,Ki先生は8日朝早くメルボルンを出発して成田に戻り,1泊して翌9日にロシアのモスクワに移動した.Ki先生は,私たちよりさらに大きな気温差を体験したに違いない.


2012年12月15日記


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