第53回七大戦壮行会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この(2014年)7月2日(水)の夕方,川内南キャンパスにある川内萩ホールで,第53回全国七大学総合体育大会,通称七大戦(ななだいせん)の壮行会が,続いて,同ホール会議室に会場を移してレセプションが開催された. どちらの会も,本学応援団が主催した会である.このレセプションで,冒頭の挨拶と乾杯の音頭を頼まれた.私の挨拶は,大要以下のようなものであった. 学友会副会長として一言,挨拶したい. 42種目中11種目が終わった昨日(7月1日)現在,本学は東京大学に2ポイント差の第2位につけている.まだ,31種目残っているので,十二分に優勝を射程距離の中である.今後も油断しないで,それぞれの種目で,例え優勝が叶わなくとも,少しでも順位を上げるよう頑張っていただきたい. さて,私は,スポーツはからっきしダメで,クラブやサークルに入っての運動はしてこなかった.そんなこともあり,本学の体育部関係の活動や,七大戦についての知識は全くなかった.しかし,この立場になったので,最近いろんなことを調べるようになった. 昨年度のこの会では,調べたことの一端として,七大戦がどのような経緯から始まったのかを話した.要約すると,1960年ごろ,北海道大学体育会の委員長であった稲見芳治さん,その次の委員長の阿竹宗彦さんのアイデアと行動で,七大学の体育会がまとまり,開催に至ったというものである. 当然のことながら七大戦は学生のみの力ではできず,大学からの支援が必要となる.そこで,阿竹さんたちは,第1回目の大会を北海道大学でやりたいということで,課外活動などの学生支援を担当していた学生部の次長さんに協力をお願いした.その結果,学生部も了承し,最終的に当時の杉野目春貞総長に了解を取ることになる.この話を聞いた当時の杉野目春貞総長は次のようなことを話されたのだそうだ. 「とにかく学生諸君が一所懸命やって纏めたのだから,開会式には各大学の学長さん全部に是非出席して欲しい.私から茅先生にお願いしてみよう」と(苫米地,1990).茅先生とは,東京大学総長の茅誠司先生のことである. 実際この学長会議が,開会式の前日に行われたという.以後,毎大会続くことになる.もっとも,最近は前日ではなく,当日に行われている.今年も開会式当日5日の午後1時〜3時まで,文部科学省の方も交えて行われることになっている. さて,昨年7月,大阪大学での開会式で,第1回七大戦当時,本学の体育会委員長をされていた佐藤辰夫さん(東京にお住まいで医療法人理事長)にお会いした.佐藤さんから,第1回が開催された1962年当時,七大学の総長のうち4名が東北大学の卒業生だったので,開会式には総長が出席する話がすぐに話がまとまったのではないか,との話をお聞きした.当時,七大学の中で,本学出身の総長が4人もいたとのいうのは驚きだった. そこで,調べてみると,なるほど4名の総長が本学出身者であった.北から,北大の杉野目春貞先生,本学の黒川利雄先生,東京大学の茅誠司先生,大阪大学の赤堀四郎先生である. 北大の杉野目先生と阪大の赤堀先生は理学部化学科,東大の茅先生は理学部物理学科,そして本学の黒川先生は,皆さんよくご存知のように本学医学部の出身である. 七大戦の設立に関しては,北海道大学の体育会委員長の稲見芳治さんやその後を継いだ阿竹宗彦さんの名前が決まって出てくるのだが,彼らのよき理解者として,本学の出身者4名を含む7名の各大学の総長がおられた,と私は理解したい.すなわち,本学関係者も七大戦の創立に大いに貢献したと私は考えたいのである. さて,第1回七大戦では,阿竹さんが応援団長だったということもあり,北大応援団も開会式などで大いに活躍したであろう.そして,それを見た本学総長黒川先生は,応援団の創立を思いついたのではなかろうか.本学の応援団が設立は,翌1963年の6月である.また,そのような訳で,応援団の部長を,里見総長をはじめとし,代々医学部の先生方が務められているのだろう. 話が長くなった.今年も皆さんの頑張りに期待したい,今年も優勝しよう. <参考文献> 苫米地秋郎, 1990: 国立七大学総合体育大会(七帝戦)の思い出. (社)学士会報, No. 789,平成2年10月号. <参考:七大戦第1回(1962年)当時の各大学の総長について>
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