才野さんの追悼集原稿
この(2014年)4月,長くお付き合いいただいた才野敏郎さんが亡くなられた.65歳だった.私の研究分野は海洋物理学で,才野さんは海洋生化学分野なので,専門を異にしているのだが,次第に才野さんは海洋環境とプランクトンなどの生態系の長期変化に関心が移ったので,私たちの研究ともオーバーラップし,研究の上でもお付き合いがあった.実際才野さんと名前を連ねた論文が1編ある.

才野さんの訃報は,日本海洋学会のメーリングリスト(学会ML)に4月18日に投稿されたメールで知ることとなった.その後,時事通信や毎日新聞に才野さんの訃報が報じられた.記事から,「がん性腹膜炎」で亡くなられた事がわかった.

ところで,才野さんの専門は,時事通信の記事では「生物地球化学」と,毎日新聞の記事では「海洋気候生物学」となっていた.才野さんの学問分野をどう表現するかは,確かに難しい.ご本人はどう表現していたのだろうか.私の感覚では毎日新聞の「海洋気候生物学」が,一番フィットするような気がする.

4月17日に才野さんが亡くなられたのだが,7月に入り.才野さんの職場であった海洋開発研究機構(JAMSTEC)の方々が,才野さんの追悼企画の一つとして追悼集を作るとのことで,学会MLで学会員へ下記のような案内を送った.メールの一部を引用する.

「このたびJAMSTEC有志で,才野さんのご功績をたたえ追悼論文・寄稿集をまとめる企画を立てています.同文集は,来年3月春季学会中に開催を計画中の『才野さんを偲ぶ会』にてご家族を含め出席者の方々等に配布する予定です.つきましては,才野さんとこれまでいろいろな形でお付き合いがあったと思われる学会員の皆様に,同文集に掲載するためのメッセージをお寄せ頂きたくMLを通じてご連絡させていただきました.」

「才野さんが目にされたなら,くすっと笑って下さるような,あるいは『けしからんっ』と言いそうな,楽しい思い出のエピソードなどを書いていただければ,より心のこもったものになるでしょう.分量的にはA4一枚程度に収まる程度でもっと短くても良いですし,お写真中心でもかまいません」.

このメールの最後には,「才野さん追悼企画発起人一同」としてJAMSTECのHoさん,Haさん,Cさんらのお名前があった.

その後私も何かぜひ書いておきたいと思い,一気にA4版一枚,約1200字の原稿を作成し,Cさんに送った.ほぼ,私が記憶している範囲内で書いた「初の研究航海は才野さんの助手」と題する原稿であった.

ところで,Cさんに原稿を送ったものの,具体的に最初の研究航海は何日から何日までだったのだろうと知りたくなり,送付した翌日に研究室へ行き,「東京大学海洋研究所30年史(1962-1992)」で調べてみた.その結果,才野さんとの出会いについて,私の記憶は何か間違っているのではないかと不安になってしまった.

私の最初の研究航海は白鳳丸KH78-4次航海である.これははっきりしている.調べてみると,1978年9月18日から10月7日までの20日間無寄港の航海である.主席研究員は東大海洋研の寺本俊彦先生で,海洋研所内から7名,所外から15名の計22名が乗船した.航海の研究テーマは,「黒潮隣接域の海洋構造・海底長期測流」,海域は「伊豆海嶺周辺・海溝東方海域(B点)」とある.

次に私の2番目の研究航海であるが,それは3年後の白鳳丸KH81-2次航海である.期間は4月8日から5月2日までの25日間で,途中父島に4月22日から25日まで寄港した.主席研究員は同じく寺本先生で,海洋研所内から8名,所外から13名の計21名乗船であった.航海のテーマは「伊豆海嶺が海洋循環におよぼす影響の研究」である.

さて,記憶違いとは,研究航海のテーマなのである.私の頭の中にある才野さんの助手をした航海の研究テーマは,2番目に乗船した航海のテーマなのである.既に送付した原稿もそのように書いた.これは私の記憶違いなのだろうかと,頭を抱えてしまった.

もし,2番目の研究航海であれば題名から,すなわち,「初の」ではなく「2回目の」に修正しなければならない.そこで,自宅に乗船中の写真があるはずで,それを見ると確かめられるかもしれないということで探してみた.その結果,KH78-4次研究航海の写真に,才野さんらしき人が写っている写真があった.一方,KH81-2次の私の持っているに写真にはないのである.私自身は写真を熱心に撮る方でないので,両航海とも写真は本当に少ない.

研究航海ではクルーズレポートと呼ばれる研究航海報告書を出すのが通例である.これは船内版と呼ぶ航海中に作った速報と,数年後ある程度のデータ解析も行った正式版の二つがある.調べてみると正式なクルーズレポートは作成していないことが分かった.また,私の速報版はとうに処分している。

そこで,海洋研で才野さんと同じ研究室の助手を務めた現東京海洋大学のKさん,KH78-4次研究航海の研究テーマを提案し乗船したIさん,才野さんのお弟子さんで私たちの研究室にも所属した現在名古屋大学にいるSさんにメールを出して,このあたりの情報を教えてもらうことにした.

しかし,どなたからも決定的な情報はなく,間接的な複数の情報から判断するより他なかった.結局,才野さんの追悼集に出す原稿は,最初のものを若干修正した下記のものをCさんに再送付した.この原稿,細部に至るまで正確なのか,正直若干の不安は残っている.

<初の研究航海は才野さんの助手>

サウジアラビアから帰国した翌日(2014年4月19日)の朝,前日に配信された学会メーリングリストのメールの中に,才野敏郎さんの訃報を見つけた.才野さんは何年も前から病魔に見舞われており,それでもJAMSTECや海洋学会のために献身的な貢献をされていた.しかし,昨年夏ごろから相当悪いようだとのことで,このような事態になることの覚悟はしていたのだが,ついにとの感慨であった.

私と才野さんとの出会いは,1978年の白鳳丸のKH-78-4次航海のときである.航海の主席研究員は東京大学海洋研究所の寺本俊彦先生(海洋物理学部門)で,B点での係留系設置回収のための航海であった.加えて,当時寺本研の修士課程院生であった金子郁夫さん(故人,元気象庁,2010年ご逝去)の研究テーマであるフィリピン海盆の中・深層循環の解明のための観測も行った.中・深層循環解明のためには,水温や塩分の精密測定に加え,溶存酸素や栄養塩の分布が有効である.そこで金子さんは,当時服部明彦先生の研究室(海洋生化学部門)におられた才野さんに,栄養塩を分析して欲しいと依頼したのだそうだ.この航海で才野さんが持ち込んだオートアナライザーによる栄養塩分析の手伝いをしたのが私であった.どのような事情から寺本先生が私を才野さんの助手に指名したのかはわからないが,初の研究船航海で才野さんと巡り合ったのである.航海中,分析が無いときは才野さんの居室で,同じ東北大学から乗船した私の2学年下の倉沢由和君(石油公団を経て,現在INPEX)と一緒に,日本酒を何度もごちそうになった.先の外航時に入手した錫製の燗付け器(のようなもの)を自慢していたことや,生まれたばかりのお子さんのことを,写真を見せて嬉しそうに話していたことなどを思い出す.

当時才野さんは,海洋での窒素循環を研究テーマにしていること,特に窒素を固定するラン藻であるトリコデスミウムに着目していることなどを説明してくれた.そんな訳で倉沢君とは,才野さんのことを「トリコちゃん」とひそかに呼んでいた.

さて,船から降りて最初の海洋学会である1979年春季大会は,海洋研の主催で全共連ビルで開催された.倉沢君とともに日本酒の一升瓶2本を,大会のお世話をしている才野さんへ届けた.このことが後で何度も言われる羽目になる.「いや―,あれには参った.重い一升瓶2本をぶら下げて動く羽目になったのだから」と.この時持参した日本酒は,宮城県の一ノ蔵酒造の「無鑑査」であり,以後,才野さんが大好きな銘柄の一つとなった.

以来,才野さんとは分野が異なるにもかかわらず,ずっと懇意にしていただいた.私たちのグループの学会発表会場によく聞きに来てくれた.私も才野研の博士論文の審査員になったり,名古屋大学での講演を依頼されたり.そうそう講演の後,名古屋のマンションでご馳走にもなった.毎年2回,私の拙いエッセイを長年送り続けもした.2007年4月からは,私の後任のJO編集委員長も引き受けてくださった.才野さんとの思い出は尽きない.合掌.


2014年9月10日記


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