川内キャンパスのメタセコイア |
川内北キャンパスの外縁や建物に沿って,何本ものメタセコイアが整然とそびえ立っている.ビルの階で数えると,もう6階から7階の高さまで成長しているので,20メートル位の高さに達しているのではなかろうか. 一昨年(2014年),川内の厚生施設脇のメタセコイアに雷が落ち,枝が弾き飛ばされるという事故が起こったという.また,キャンパス外縁に植えられているメタセコイアも,枝を道路上に伸ばしている状態となっている.そこで昨年度から,川内北キャンパスにある部局が合同して予算を確保し,何年間かかけて剪定をすることとなった. 実際(2016年)3月には,私の部屋がある教育・学生総合支援センター脇の11本のメタセコイアの剪定を行った.この剪定は枝という枝をすっかり切り落としてしまうという荒療治(?)であった.これで大丈夫かなと心配していたのだが,6月に入った現在,そちらこちらから小さな枝と青い葉が出てきており,メタセコイアの生命力に驚くばかりである. さて,このメタセコイアが川内北キャンパスにどうして植えられたのか,つい先ごろその一端を知る機会があった. 先月(5月)21日(土)は,本学金属材料研究所(以下,金研と記す)の創立百周年の日であった.市内のホテルで,午後に記念の式典・講演会・祝典が開催された.本学きっての伝統ある附置研究所であり,記念行事には300人を超える多くの方々が詰めかけ,大変盛大なものであった. この行事の参加者に資料や記念品などが配られたのだが,その一つに冊子があった.「片平の散歩道~金研百年の歩みとともに」(東北大学金属材料研究所編,河北新報出版センター,183ページ)と題するもので,発行日はまさにこの式典が行われた日付であった. この冊子を読んだところ,二つの記事で本学にメタセコイアが植えられた経緯が記されてあった.二つの記事とは,「メタセコイアの並木」(高橋静香,19-21ページ)と,「生きた化石・メタセコイア」(小林典男,140-143ページ)であある.著者の高橋静香さんは仙台市在住のライターで,小林典男さんは金研OBの本学名誉教授の先生である. 以下,この二つの記事からメタセコイアが川内北キャンパスに植えられた経緯をまとめて記しておく. メタセコイアは,300万年前に死滅したと伝えられていた.実際,化石でしか見つかっていなかったという.前者の記事には,「米ケ袋の坂を下った広瀬川の遊歩道入り口に立つと,川の中に岩のように点在するセコイア類の化石が見られる」(21ページ)とある.「ほぼ完全に近い形で残る化石林は全国的にも珍しく,仙台市指定の天然記念物なっている」(同)のだそうだ. このメタセコイア,1945年(後者の記事には1944年とある.Wikipediaでは1945年であった)に中国の植物学者により四川省で発見された.後にその種子がアメリカに送られて栽培された.日本には,1949年,30㎝ほどに育った苗木と種子が持ち込まれ,昭和天皇に献上されたのだという. さらに翌年の1950年には,100本の苗木が日本に持ち込まれ,全国の大学や試験研究機関に贈られたのだという.本学には,3本の苗木が届けられた.2本は当時片平にあった理学部生物学科の庭に,1本は上杉にあった旧宮城師範学校の庭に植えられたという. 当時の理学部生物学科は,現在の金研隣の放送大学(宮城学習センター)のところにあり,今もメタセコイアが建物近くにそびえている. 後者の記事によれば,「旧宮城師範学校のメタセコイアは,その後師範学校の廃止に伴って川内キャンパスに移植された」(142ページ)という.それがいつなのかは,残念ながらこの記事には書いていない.Wikipediaや東北大学概要によると,宮城師範学校は1951年3月に廃止され,同年4月からは東北大学教育学部に改組されたという.しかしながら,川内に本学の組織が移転するのは,1958(昭和33)年のことである. さらに後者の記事には,「その後,東北大学では3本のメタセコイアから苗木を採取して,東北大学の核キャンパスに植樹している.片平キャンパス北門横にある並木もその一つである.また,川内キャンパスには沢山のメタセコイアが育っている.川内キャンパスが整備されはじめた1970(昭和45)年ころからもことらしい」(143ページ)とある. これによると川内キャンパスへの移植は1970年のころとあるが,このあたりのことは,私には不明である.私は1971年に本学に入学した.川内キャンパスの教養部で3年間を過ごしたが,メタセコイアに関する記憶は一切ない. ということで,川内北キャンパスに,メタセコイアがいつ,誰によって,どのような経緯で移植されたのかは,まだ謎のままである. 2016年6月10日記 <追記> 本文で記した前者の記事には,「東北大学理学部 生物学教室五十年史」(東北大学生物学教室五十年史刊行委員会,1980年)に,故木村有香(きむらありか)先生(1900-1996年)がメタセコイアについて書いていることが記されていた.木村先生は,本学生物学科第3講座(植物分類学)教授であり,1958年に本学植物園の初代園長に就任し,1963年3月に定年退官を迎えられた. 私が理学部に務めているとき,同窓会関係の議論の資料として生物学科の先生からこの五十年史のコピーを頂いていた.手元にあるので調べてみると,「実験園」(80-85ページ)の項目に,木村先生がメタセコイアについて書かれた部分があった.以下,原文通り,引用する. 「なおもう一つ書き残して置きたいのはメタセコイアのことです.中国の原産地から種子をアメリカに持って行き,そこで育てた苗100本が昭和25年4月に日本にもたらされ,北海道から九州まで方々に試験的に植えられました.仙台では杉原美徳(注1)君が責任者となり,そのうち3本を引受けました.この内2本を頼まれて私が生物学教室の実験園に植えましたが現在立派に成長をつゞけています.2本のうちの1本は特に樹姿美しく成長も早くまことによい品種で『東北大学のあけぼの杉』の名で仙台市の『保存樹木』になっています.非水溶液科学研究所(注2)前の西沢恭助(注3)名誉教授を記念して植えられたメタセコイアの並木は,この株の枝を挿木にして出来たものです.第3の株ははじめ北六番丁の旧宮城師範学校の庭に植えられましたが移植して今は川内の教養部にあります.」 (注1)杉原美徳先生は,本学生物学教室を1938(昭和13)年に卒業した.五十年史の参考資料として職員録があるが,杉原先生は1938(昭和13)年4月から1944(昭和19)年9月,1947(昭和22)年9月から1949(昭和24)年7月まで職員として勤めていたとある.しかし,本文からはどのような立場であったのかの情報はなかった.なお,メタセコイアの苗木は1950(昭和25)年4月に持ち込まれたので,杉原さんは既に本学から離れていたことになる.当時どこに勤めておられていたのかは,残念ながらわからなかった. (注2)非水溶液研究所は1944(昭和19)年1月に設立された附置研究所で,1991(平成3)年4月に反応化学研究所に改組・転換し,2001(平成13)年4月に現在の多元物質研究所となった.メタセコイアは,北門から入って左手の多元物質科学研究所東館の前に並んでそびえ立っている. (注3)西澤恭介助先生は, 1892(明治25)年生まれで九州帝国大学工学部応用化学科を卒業後,本学工学部に移り,教授を務めた方である.なお,先生は本学第17代総長西澤潤一先生の父君である. website top page |