片平キャンパスのメタセコイア並木
前回のこの欄で,川内北キャンパスのメタセコイアがどのような経緯で,いつ植樹されたのかについて,分かる範囲で紹介した.今回は片平キャンパスのメタセコイアについてである.

北門を入ってすぐ左手側にある多元物質研究所反応化学研究棟1号館に沿って,13本のメタセコイアが並んでいる.同棟の玄関に向かって左側に5本,右側に8本である.いずれも4階建ての1号館よりはるかに高い樹高である.

右側の並木の前に,メタセコイア並木の由来を示す掲示板が立っている.その掲示板には以下のような記述がある.実際は縦書きであるが,ここでは横書きで,また,文章中には句点(。)はあるが,読点(,)はない.ここでは読点を補って示す.

「あけぼの杉(メタセコイア)
 このメタセコイア並木は,東北大学名誉教授西澤恭助博士の退官を記念として,昭和31年に植栽されたものである。
 メタセコイアは『生きた化石植物』として昭和20年,中国四川省で発見された。
 昭和25年,アメリカで育てられた苗100本が日本におくられた。仙台には3本がおくられてきた.その中の2本が理学部生物学教室の庭にある。
 この並木は,その原株から挿木として育てられたものである。
 昭和58年3月 東北大学」

さて,西澤先生の退官を記念して,どうして数ある樹種の中でメタセコイアが選ばれて植樹されたのであろう.この手がかりを得るために,西澤先生の退官記念行事等の記事が出ている同窓会会報などを調べることとした.

その結果,本学工学部応用化学系の同窓会組織である「九葉会」の会報に,西澤先生の退官記念号や追悼号があることが分かった.しかし,会員以外はウェブサイトからダウンロードできない.そこで,現工学部長・工学研究科長のT先生が応用化学系であることを思い出し,T先生にコピーをいただけないかとお願いした.T先生は早速コピーを届けてくれた.それも,私が頼んだ以外に関連する記事なども追加して届けて下さった.

以下,九葉会会報に印刷された順序に従って経緯を紹介したい.なお,記事によってメタセコイアがメタセコイ「ヤ」や,西澤先生が西「沢」先生となっている個所があるが,以下,原文のまま引用することとする.

1956(昭和31)年に発行された「九葉会会報第二十号(復刊三号)」は,原龍三郎先生・伏屋雄一郎先生・西澤恭助先生の御退官記念号である.

この中に菅野俊六さんが,「西沢先生御退官記念会状況報告」なる記事を書いている(57-59ページ).その末尾近くに次のような記載がある.

「尚,予定されていた記念植樹(メタセコイヤ)は植樹の時期の関係上来春行われることになりましたが,記念植樹の碑は記念式当日(筆者注:1955年11月3日)までに,応化・非水研新館前庭南寄りに据えることが出来ましたことを御報告いたしておきます」.

著者の菅野俊六(かんのしゅんろく:1923-2008年)さんは,宮城県のご出身で,1946(昭和21)年本学工学部化学工学科を卒業し,本学に奉職した後,山形大学工学部に異動された方である.山形大学から名誉教授の称号を受けている.西澤先生のお弟子さんの中でも,特に公私ともにお付き合いが深かった先生ではなかろうか.

翌年(1957年)の「九葉会会報第二十一号(復刊第四号)」の中の「名誉教授の近況」に,同じく菅野俊六さんが「西沢先生の御近況」と題する記事を書かれている(7-8ページ).その記事の最後に,次のような記載がある.

「又,先生の御近況とは異りますが,御退官記念事業に予定して居りましたメタセコイヤの植樹は本年(注:1956年)5月,新館前庭に五本の植樹を終り無事全部が根づき青々とした葉が繁り,現在までに一尺以上も成長致しました」.

さて,ここでオヤッとされた方もおられるのではなかろうか.植樹したメタセコイアは5本だったのである.然るに現在,先に記したように並木は13本のメタセコイアからなっている.いつ,誰が13本まで増やしたのだろうか.ここには後日談があるのかもしれない.この件,T先生もぜひ調べてみたいとのことである.

さて,西澤恭助先生は,1892(明治25)年2月25日に愛知県でお生まれになり,九州帝国大学で学ばれた.その後(おそらく九州帝国大学で3年間勤められた後),1920(大正9)年に本学へ助教授として着任された.以来教鞭をとられ,1955(昭和30)年3月に定年御退官された.

亡くなられたのは1995(平成7)年8月16日のことである.満103歳であった.1996(平成8)年2月に発行された「九葉会会報第六十一号(復刊四十四号)」は,斎藤正三郎先生・只木楨力先生退官記念号,並びに,西澤恭助先生追悼号であった.

この追悼号の中に,「西澤先生に教えていただいたこと」と題して再び菅野俊六さんが文章を寄せている(26-27ページ).この文章の「追記」として,メタセコイアの植樹の経緯が次のように書かれている.なお,原文は2つの節からなっているのだが,読みやすいように,さらにいくつかの節に分けて引用する.

「現在,反応化学研究所本館の西側前庭に西澤恭助先生の御退官記念植樹として『アケボノスギ』の巨大な並木がありますが,この植樹が立案された時の経緯を簡単に記して置きたいと思います.

この植樹は西澤先生御退官記念会の記念事業の一つとして立案,承認されましたが,樹種の選択,植樹の時期については西澤研究室御出身の天笠正孝,徳久寛両教授に一任されました.樹種の選定に当たっては,植物学の泰斗である,理学部生物学科の木村有香教授の御意見を伺うことになり,両教授に助教授だった私がお供をして木村教授の教授室に伺いました.

木村教授は,『記念植樹にはよく公孫樹が用いられるが,これには雌雄の別が有り,用いるとすれば姿の良い雄樹のほうが良いでしょう』と話された後,次のような話をされました.『公孫樹は公孫樹で記念植樹には良いのだが,私の研究室の苗園に近年中国奥地で発見された『メタセコイア(和名:アケボノスギ)』の挿木苗が何本か試植していますが,着根が非常に良く,成長も早い.落葉樹ですが,旧くは仙台付近でも生育していたことが,仙台産の埋木の中にこのものが見出されていることから確実視されています.これを記念樹として用いるのも面白いのではないでしょうか』.

又,この時木村教授は『この木は生育が早く,枝の張りも広くなるので,最初は狭い間隔で植えておき,或る程度の高さになり,枝が触れ合う様になったら,一本置きに間引きするとよい並木になると思います.又,或る高さになったら,木の芯を止めるようにすればよい.』と付言して居られました.」

本学にメタセコイアが来たのが1950(昭和25)年のことである.西澤先生が退官されたのは1955(昭和30)年3月であるから,記念植樹の相談は1954年秋ごろに行われたのではなかろうか.生物学教室の付近にメタセコイアが植栽されてから既に4年が経とうとしている時期である.その時には,成長の速い植物であるから,既に立派な姿を呈していたのであろう.このようなことで木村教授が記念樹としてメタセコイアを推し,天笠・徳久両教授,そして菅野助教授がそれを受諾したのではなかろうか.

さて,先日,片平キャンパスの東側を散歩してみた.そこで分かったことは,メタセコイアの並木は,少なくとももう2か所にあることである.1か所は本部棟の南側で6本の並木が,もう1か所は正門から入ってすぐ左側の道路沿いで同じく6本の並木がある.

これらは,どのような経緯で植樹されたのであろうか.メタセコイアは成長が速く,見栄えも優れていることから,それが何かは分からないが機会があるたびに植樹されてきたのであろう.

なお,本部棟2階の総長応接室には「メタセコイヤと東北大学百周年記念会館」と題する油絵が飾られている.この絵には,「制作・寄贈 牧野文雄氏 2008年」の説明が添えられている.百周年記念会館を南側から見た構図で,絵の中央から左側には園内の周回道路に沿ったメタセコイアの並木が描かれている.インターネットで作者牧野文雄さんを調べたところ,本学工学部建築学科を卒業された画家の方であることが分かった.


2016年7月10日記


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