川内北キャンパスのメタセコイアは京都大学から?
【はじめに】

川内北キャンパスのメタセコイアは現在144本あるが,どのような経緯で植樹されたのだろうか.今回はその後,大変重要な情報を頂いたので,それを起点として調べたことを記す.

この重要な情報は,教養部に長くお勤めになられた蟹澤聡史先生(東北大学名誉教授)から頂いた.この経緯は,次のようなことであった.本学では毎年,中国から留学している大学院学生に「藤野先生記念奨励賞」を授与している.授与式には宮城県日中友好協会の会長さんや事務長さんが出席することになっている.現在の会長は,同じく教養部に長年お勤めになられた江幡武先生(東北大学名誉教授)である.

昨年の授与式は2017年9月26日に行われたが,江幡先生に川内のメタセコイアについて質問したところ,先生自身は分からないが,蟹澤先生ならご存知だろうと私が書いたこれまでの文章などを蟹澤先生に転送してくださった.これが契機となって蟹澤先生から私の知らない情報を頂くことになった.

【蟹沢先生からのメール】

授与式の翌日(9月27日),蟹澤先生から次のようなメールが入った.

「ご無沙汰しております.突然ですが,江幡武先生から『東北大学のメタセコイア』に関して,花輪先生がいろいろとお調べになっているとのお話を聞きました. たいへん不躾ながら,先生の玉稿を江幡先生が転送して下さったので,とても興味深く拝読いたしました.何かコメントがあれば,花輪先生に知らせて欲しいとのことでした.

ちょうど,旧教養部理科研究棟(今の東北アジアなどの建物)のできる時期に私が教養部に居た関係もあって,思い出せる部分のみを綴ってみました.ワードの添付ファイルです.

また,生物学の清水芳孝先生もこの件に関して二編ほどお書きになっていますので,それを貼付します.ご参考になれば嬉しいのですが.」

そして,添付ファイルには,蟹澤先生の以下のメモが書かれてあった.

「『川内のメタセコイアに関して』

今のところ分かっている範囲の手もとの資料を添付します.これは2014年春,百歳を目前に亡くなられた生物学(ご専門は植物遺伝学)の清水芳孝先生が東北大学生新聞(学友会の新聞ではない)に1985年から掲載されたエッセイを2000年にまとめた『四季の博物誌』生物研究談話会(非売品)に載っているものです.一つは『メタセコイア』で,もう一つは『アケボノスギ』となっています.初出の年月日は不明です.内容はほぼ花輪先生ご執筆の文書と同じかと思います.jpgファイルで添付します.

私が覚えている範囲ですが,私は1964(昭和39)年7月に官制化されたばかりの教養部助手に採用され,その時の部長は生物学の永野爲武先生でした.その後,恒久建築棟の建設が具体化して,部内に建築委員会が設置されました.少数人数の地学科からは助手の私がほとんど代理出席でこの会議に出席していました.1967(昭和42)年12月に理科研究棟が完成し,それまで分散していた理科系各研究室がここに移転しました.メタセコイアの植樹も理科棟完成の直後だと記憶しています.『東北大学百年史十一 資料四』211~213ページにはこの時より少し後の写真が載っています.川内の他の地域に繁茂しているメタセコイアの植林についてはあまり記憶がありません.

ところで,清水先生でしたか他のどなただったのか忘れましたが,メタセコイアは成長が早く,また根の張るのが地上すれすれだったりして,倒れやすかったり,水道などの施設を破壊する恐れがあるという話もこの頃聞いたような気がします.但し,もう少し成長してからだったかも知れません.地学科の奥津春生先生のご専門は応用地質学と植物化石でしたので,あるいは奥津先生だったのでしょうか.霊屋下の化石林を天然記念物に指定したのは奥津先生のご尽力もあったのでしょう.(後略)」

【清水先生の『四季の博物誌』の記述内容】

蟹澤先生の文中にある清水芳孝先生の文章がPDFファイルで添付されていたので,それらも紹介するがその前に,清水芳孝先生についてである.以下,故人については敬称を略する.

清水は,1915(大正4)年生まれで,旧制二高から東京大学に進み,卒業後信州大学で教鞭をとった.1950(昭和25)年10月31日に本学教養部に転入し,1978(昭和53)年4月1日に停年退官した.清水は二高時代,後出する小野知夫教授の薫陶を受けた生物学(植物遺伝学)の先生である.清水は本学退官後,東北学院大学教養部で教鞭をとり,2014(平成26)年,百歳に1か月ちょっと満たないところで,鬼籍に入られた.

さて,先述の『四季の博物誌』の「アケボノスギ」と「メタセコイア」の記事である.記事は,25字22行の2段組みで,1項目2ページにまとめられている.文字数としては,1項目約2000字となる.アケボノスギはメタセコイアの和名であるので,同じ樹を対象としたエッセイが2つあることになる.両者には多くのダブりもある.以下,本学や川内キャンパスとの関連のところのみを紹介し,注釈を付ける,

〇東北大学送られた苗木について

メタセコイアの項では,「百本のうち三本が昭和二十六年春,東北大学に送られ,一本は川内,二本は片平丁のキャンパスに植えられた」とある.一方,アケボノスギの項では,「一九五〇年,米国からメタセコイアの苗木百本が日本に送られてきたが…」とあり,続けて「前記百本の苗木のうち,三本が東北大学に配布され,内二本は片平の校内,残り一本は川内の校内に植えられた」とある.

苗木が送られた年が二つの項で違っているが,1950年が正しい年である.また,一本が川内に植樹されたとあるが,これも誤りで,当時生物学科教授であった木村有香は,「北六番丁の旧宮城師範学校の庭に植えられました」と書き残している.清水の本学着任は1950年10月31日のことであるが勤務先は富沢キャンパスである.また,川内キャンパスを本学が使うようになったのは,1958(昭和33)年のことである.したがって,清水の記載は誤りである.

〇川内のメタセコイアについて

アケボノスギの項で,清水は送られた苗木3本のうち1本は川内と記した文章の次に,「現在川内で並木としてそびえているのは,小野知夫教授の依頼で京大から送られてきた苗木による」としている.なお,この記載はアケボノスギの項にはない.

この記載は極めて衝撃的である.片平のメタセコイア並木は,本学に送られた3本の苗木から移植されたことが分かっているが,川内はそうではないのだという.これは本当のことなのであろうか.

【清水の他の記事】

いろいろと探していると,清水にはもう二つの文書があった.一つ目は,1972年9月11日発行の東北大学教養部報第13号の「川内樹木考」(8~10ページ)である.二つ目は,1994年発行の川内親交会会報第8号の「思い出の樹々」(68ページ)である.

まず,前者の記事では.川内で観察できる樹々のうち,ユリノキ,メタセコイア,ケヤキ,ボダイジュ,アメリカヤマボウシ,ヤマボウシ,クマノミズキ,トチノキの8種について解説している.メタセコイアは2番目の登場で,その中に次のような記載がある.

「現在,扇坂から青葉山にあがる道路沿いにそびえ立っているメタセコイアの並木は,小野教授が教養部の前身である川内分校の主事のとき,京大農学部の山下教授に依頼して送ってもらった苗木によるものである」.

一方,後者の川内親交会会報の記事には,傘寿を迎えて「川内キャンパスで顔見知りの教職員に遇うことはまれになった」が,「キャンパスの樹木だけは相変わらずで,昔日のことを思い出させる」として,メタセコイアについて次のように記している.

「メタセコイアは,今はどこでも見られるが,川内キャンパスに植えられた時は珍しい木であった.故小野教授が京大農学部の故山下孝介教授に依頼され送られた苗木によるものである」.

清水は二高時代,小野から生物学を学んでいる.そして,次項に述べるように,小野が教養部教授に就任後,清水を東北大学に招いたのである.このような背景を考えると,この情報はかなり確信度が高いように思える.

【小野と山下】

前項で登場した小野知夫と山下孝介のことである.小野は東北帝国大学理学部生物学科(第3講座 植物分理学)を1926(大正15)年に卒業した.その後旧制第二高等学校の教授を勤めている中,1935(昭和10)年に本学から理学博士の学位を授与された.1947(昭和22)年,同講座で木村有香が教授に昇任したことを受け,その後任の助教授として同年5月に着任した.そして2年後の1949(昭和24)年5月,理学部から本学教養部の教授へと異動した.以上,「東北大学理学部生物学教室五十年史」(1955年12月10日発行)から得られる情報である.

1990年発行の川内親交会会報第9号には,「東北大学分校史略年表」(47~54ページ)がある.この中に小野の名前を見つけることができる.すなわち,小野は,1957(昭和32)・58(昭和33)年度に富沢分校主事,1959(昭和34)年度~1963(昭和38)年度に川内分校主事に選挙で選ばれている.ここで主事とは組織を統括する役職名であるので,現在の部局長(教養部長)とみなせるのかもしれない.なお,富沢分校は1958年9月に川内に移転し,川内分校と名乗った.

清水は,メタセコイアを川内に植樹したのは小野が主事の時代と書いているので,年代的には1959年から1963年の間であろう.

次に京都大学の山下孝介(1909-1988)である.山下は京都帝国大学農学部農林生物学科の出身で,1950年代は木原均教授による農学部生物遺伝学研究室の室員であった.専門は植物遺伝学で,特に木村とともに小麦の祖先の研究を行った.1955年には,京都大学ヒンズークシ探検隊(隊長は木村)に参加.1967・68年に行われた「京都大学大サハラ学術探検」では.隊長を務めた.この時は,すでに農学部から教養部に異動し,教授となっていた.後に教養部長も務められている.

山下とメタセコイアを結びつける記事が1つ見つかった.岐阜県中津川市苗木小学校のウェブサイトの記事である.2017年11月1日に掲載された記事で,その他に分類されていた.3枚のカラー写真が添えられた記事の表題は,「京大,山下孝介先生を思う『メタセコイヤ』!」で,本文は以下の通りである.

「苗木小学校には大きなメタセコイヤがあります.(樹高約25m)
この木は本校卒業生の山下孝介先生と関わりがあります.
山下孝介先生は,昭和の時代に京都大学の教授として活躍された農学博士です.
先生は,生態学者として有名な京都大学の梅棹忠夫先生や今西錦司先生方と世界を探検.
小麦など植物の遺伝にかかわる調査研究を続けられました.
学術探検において,これまで化石しか存在しないと思われていた『生きたメタセコイヤ』を発見.
その子孫を幾つか日本に持ち帰られました.
このメタセコイアを見ていると,世界で,そして京都で研究に邁進された山下先生の思いが伝わってきます.
(苗木小卒業生エピソード)」

学術探検で生きたメタセコイアを発見とある.発見は一度きりの出来事と厳密に解釈すればこの表現は誤りであるが,それはさておこう.なお,苗木小学校にあるメタセコイアが山下から送られたものであるのかは,同校のウェブサイトからは不明であった.

【おわりに】

今のところ小野の生年は分からないが,1926(大正15)年に大学卒業であるのでおそらく1900年代のお生まれであろう.そうすると,山下と同年代であり,かつともに植物遺伝学を専門とされているので,懇意であったろうことは想像に難くない.小野が川内分校の主事であった1960年前後,川内地区の景観を整えるため,メタセコイアを京都大学から山下を通じて移植したこともあり得ないこともないのかもしれない.

しかし,メタセコイアは本学にも存在し,すでに先のこの欄に書いているように,1960年前後には,片平キャンパス内に並木となるよう植樹が何回か行われているときでもある.なぜ,わざわざ京都大学から苗木を取り寄せて川内キャンパスに植えたのか,やはりまだしっくりとこない.


2018年12月10日記


website top page