東京大学小石川植物園のメタセコイア |
昨年(2019年)12月の日曜日に,東京大学小石川植物園(文京区白山3丁目7-1)を訪問した.斎藤(1995,文末参照)によると,日本で最初のメタセコイアが植樹された植物園である.小石川植物園の正式名称は「国立大学法人東京大学大学院理学研究科附属植物園」である.所在地は,現在は文京区となっているが,植物園も含めた同区の西側一帯はもともと小石川区として独立していたのだそうだ. 同園のリーフレットによると,小石川植物園は日本最古の,そして世界でも有数の歴史を持つ植物園だという.今から約300年前の貞享(じょうきょう)元(1684)年に徳川幕府が設けた「小石川薬園」に始まる.面積は約16万平方メートル(約5万坪)であり,台地,傾斜地,低地,泉水地などの地形に富んでいる. 10時開園であるが,9時45分ごろについてしまった.しかし,既に多くの人たちが入園しており,私もすぐに入ることができた.この融通の利かせ方はいいですね,気に入りました.なお,入園料は500円であった. 【メタセコイア林】 入口でリーフレットをもらって散策をし始めた.インターネットでメタセコイア林の位置を調べていたので,迷わず正門から外縁の遊歩道を左(西)側に進んだ.150メートルほど歩くと「メタセコイア林」が見えてきた.極めて整然というわけではないが,22本のメタセコイアが,東西に6列,南北に3~4列に植樹されている.樹高も幹回りもかなり不揃いと見えた,そのためか,少し離れて見ると,とても22本ものメタセコイアが植樹されているとは思えない姿であった. ところで,斎藤(1995)の本では,「24本」のメタセコイアの林とあった(153ページ).それが気になり,遊歩道を行きつ戻りつして数えたのだが,22本としか数えられなかった.私の数え間違いなのだろうか.次回は,遊歩道を外れていいのならすぐ近くまで立ち入って数えてみることにしたい.また,斎藤(1995)は,「二四本がそろった高さに並び,見事は木立になっている」(153ページ)と記している.これも,上記のように,私にはそうは見えなかった.斎藤が観察した時から20数年,あるいは30年近くも経っているので,伐採があったり,違った姿になったりしたのかもしれない. 「メタセコイア林」の遊歩道側に立札があり,本語と英語でメタセコイアの紹介が書かれていた.その最後の部分には次のように書かれている.「1947(昭和22)年この植物の種子がアメリカの調査隊によって現地で収集され,日本に初めて送られてきた.この種子は1949(昭和24)年3月東京で播種され,そのうちの1本をもとに挿し木によって増殖したのがこの林である」.入口でもらったリーフレットの「メタセコイア林」の説明の最後の記述もこれとほぼ同じであった. 斎藤(1995)によると,種子はハーバード大学のメリル博士(Elmer D. Merrill:1876-1956)から,当時東京大学理学部植物学科・助教授の原寛博士(1911-1986)に送付されたものである.ただし,メリル博士が送付した種子を,いつ原博士が入手したかについては明記されていない. 小石川植物園をウェブサイトで調べてみると,「園内案内」(https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/ koishikawa/ennai/)の中に「23 メタセコイア」の項目があった.この項目をクリックすると,「メタセコイ『ヤ』(アケボノスギ)」の説明がなされている.現在はメタセコイ「ア」と表記するのが一般的であるが,この項目ではメタセコイ「ヤ」となっていた.ともあれ,2枚の写真とともに,つぎのような説明があった. 「第三紀の地層から出る植物化石の研究において,昭和16年(西暦1941年)にMetasequioa属は化石属として発表されました.ところが,昭和20年(西暦1947年,注:もちろん,1945年の誤り)に,現生種が中国四川省で発見されました.小石川植物園のメタセコイヤ林は,現地で採集され,アメリカのメリル博士により,昭和22年(西暦1947年)に日本に贈られた種子に由来します」. この説明によると,種子は1947(昭和22)年に日本に贈られたことになる.しかし,立札やリーフレット,さらには斎藤(1995)によると,原博士が播種したのは1949(昭和24)年3月である.実際,原博士による播種と発芽についての報告は,「植物研究雑誌」の1950(昭和25)年2月号になされている.したがって,播種の時期に間違いないとすれば,原博士は1947(昭和22)年に届いた種子を1年以上も保管して,1949(昭和24)年3月になり播種したことになる.これは少し考えにくいのではなかろうか. 斎藤(1995)によれば,中国からメリル博士のところには,「1947年末」と「翌年末」に送られたとある.「末」をどう考えるかであるが,メリル博士からさらに日本に送られ,原博士に届くのは,1947年末にすぐ送ったとしても1948(昭和23)年に入ってからのことではなかろうか.立札やリーフレットでは,日本に届いた年が書いていないので今のままでもよいと思われるが,ウェブサイト記載の情報は検討を要するものと思われる. なお,斎藤(1995)によると,このメタセコイア林は,「温室で育てていた苗木から挿し木繁殖し,一九五七年(昭和三二)に,一-二メートルの苗木を移植したものだという」とある(153ページ).おそらく植物園の技官の方から聞いたのだと思われるが,どなたからの情報であるかは書かれていない. 【孤立した1本のメタセコイアとラクウショウ】 この外縁に沿う遊歩道をさらに西へ150メートルほど歩いていくと,メタセコイアではないかと思われる数本の落葉しかけた高木が見えてきた.近づいてみると「ラクウショウ」なる名札が付けられていた.「ラクウショウ」は別名「ヌマスギ」であり,メタセコイアに極めてよく似ている樹木である.メタセコイアを発見した三木先生は,このヌマスギとメタセコイアの区別をきちんとできたが故に,メタセコイアの発見につながったのである.両者の違いは,メタセコイアが対生する(同じ位置で茎の両脇に葉が出る)のに対して、本種は互生する(互い違いに葉が出る)ことである.今回ラクウショウを初めて見たのであるが,なるほどよく似ていると感心した. さらに150メートルほど西へ進むと,遊歩道すぐ近くに1本の孤立したメタセコイアがあった.どうしてここに1本だけ植樹されたのであろうか.何か特別な由来があるのかもしれないのだが,リーフレットにも小石川植物園のウェブサイトにも何も言及されていない. 【植物園の在り方の違い】 その後外周に沿って植物園を散策した.隈なく見たわけではないが,東北大学植物園とは大きく異なる考え方で植物園を運営していることが分かった.東北大学の植物園は,人の手が加わっていない自然のままの状態を,時とともにどのように変遷していくのかを観察する目的で保護されている.メタセコイアをとってみても,東北大学の植物園の圃場には植樹されているものの,本体には植樹されていないのである. それに対し,小石川植物園はそもそも人手が入った日本庭園を抱えているし,積極的に他の地域からの植物を導入している.実際リーフレットには,「本植物園では日本,朝鮮,中国を含む東アジアに分布する高等植物を中心に収集・栽培を行っている」とある.また,園内には,「ニュートンのリンゴ」や「メンデル葡萄」などもあって楽しませてくれる. 【正門付近の「アケボノスギ」】 一周して植物園本館の脇を通り正門付近に戻ってくると,茶色となって落葉しかけているひと際樹高の高いメタセコイアが見えてきた.入るときは正門左手にある切符売り場に気をとられ,まったく目に入っていなかったのだが,1本のメタセコイアが正門の真正面に植樹されていた.この木には,メタセコイアの和名の一つである「アケボノスギ」との名札が付けられている.どうしてこの木だけ「アケボノスギ」なる名札なのだろうか. 正門付近のメタセコイアについての斎藤(1995)の記述を少し長くなるが引用する. 「(略)その小石川植物園に,現存するメタセコイアの日本での最初の芽生えの木があるという.その木は同園の入口をくぐったところにそびえているのがそうだと聞いた.まさに,見上げる高さにまで成長している大木である. ところが,小石川植物園正門前の大木が日本に最初に入ったメタセコイアだと確認できる記録は,同園には残されていない.もっとも,原は播種・発芽して育成させたうち三本を小石川植物園に植えたと,生前に同園の技官に語っている.だから,園内にあることは確かである. それが,正門前に高さ二七メートル,胸高幹周囲一・六一メートルにまでに生長している木と一致するかどうか.断言はできないものの,他に該当するメタセコイアの大木は園内にないという.つまり,小石川植物園正門前のメタセコイアは,中国の現生地の種子がアメリカを経由し,日本に最初に導入されたものにまちがいはなさそうだ.」(152-153ページ). 斎藤(1995)は上記のように園内に該当する木はないとしているが,前述の1本だけ孤立したメタセコイアは該当しないのだろうか.もし,そうだとすると,原博士が植樹した3本のメタセコイアのうち,2本は現存していることになる. 【おわりに】 日本へは複数のルートでメタセコイアの種子や苗木が入ってきた.1950(昭和25)年には,カリフォルニア大学のチェイニー博士(Ralph W. Chaney:1880-1971)から,その前年に日本で急遽設立された「メタセコイア保存会」に苗木100本が届けられた.この100本の苗木は,大学や公共施設に幅広く配布された.日本で急激にメタセコイアが広がるのは,この出来事以来である.それにしてもメタセコイアの最初の導入はいつだったのか,私はとても気になっている.本稿で,原博士がいつメリル博士からの種子を入手したかについてしつこく記したのは,そんな理由からである. 参考文献 斎藤清明,1995:メタセコイア 昭和天皇の愛した木.中公新書1224,中央公論社,p.238. 2020年1月10日記 website top page |