巣ごもりの中から その4
1.大学での遠隔授業

多くの大学では,前期の授業をインターネット利用の遠隔(オンライン)授業で行ってきた.講義室内での対面授業では感染が起こる可能性があり,やむを得ず導入した措置であった.私は前期授業を受け持っていないので,その苦労は分からないのだが,遠隔授業は大変な労力が伴ったという教員もいる.一方で,思いの他双方向のやり取りもできたので,新型コロナウイルス感染症が終息したとしても,今後の有力な授業手段になるだろうとする意見も出ているという.

しかし,そうなのだろうか.一部の授業では遠隔授業で置き換わることは確かにあるだろうが,全面的に遠隔授業にはなり得ないと思う.いや,してはいけないのだと思う.教職員も学生も,ともにキャンパスにいて,授業は対面で,そして研究室配属後は多くの時間を研究室で過ごす,そんな形がこれからも大学教育の中心であり続けなければいけないのではないか.

これに関し,我が意を得た記事が,6月24日の毎日新聞に掲載された.「オピニオン 記者の目」の欄の「遠隔授業は大学の危機/授業の合間にある学び」と題する記事である.この欄は,記者が自由に個人の意見を表明できる欄であり,分量も2000字程度と,なかなか読み応えがある.今回記事を書いたのは,専門記者鈴木英生氏である.‘専門記者’とはどういう立場であるかは分からないが,文中には私立大学の非常勤講師も勤めていることが記されている.

彼が非常勤講師をしている明治学院大学の教員たちの中で,遠隔授業にはメリットがあるとの判断で,今後も遠隔授業を残すべきだとの声が上がったという.一方,学生たちのほとんどは対面授業を望んだという.学生たちにとっては,授業を記録した動画が貯まり,多くの課題をこなさなければならず,なによりもキャンパスに行って仲間と会う機会がないので,学習意欲が湧かないのだという.

この記事の全体の趣旨は,今は遠隔授業がやむを得ないが,学生が大学のキャンパスに来ることで「裏のカリキュラム」が生まれ,そこにこそ大学の価値があるのであり,したがって,遠隔授業のみではなく,‘裏のカリキュラム’をどう作り,どう維持するのかをも考えなければならないのでは,との問題提起である.

裏のカリキュラムとは,関西学院大学鈴木謙介准教授(社会学)の言葉である.表のカリキュラムである授業だけが大学ではなく,大学は「サークルや寮,研究室などに世代や興味の近い人間が出入りして長時間を過ごす場である.学生は,そこでの交流による学びという『裏のカリキュラム』も『履修』するのである」とする.実際,大学は裏のカリキュラムを生む仕組みにこれまで設備投資をしてきたという.

著者はさらに続け,「正規の授業も『裏のカリキュラム』的な要素と地続きだった」という.「対面授業で,学生は議論や質問だけでなく,私語や居眠り,サボりすら込みで教員と対話してきた」.鈴木准教授は「遠隔授業だと,知識を正確に学ばせる以上の広がりが持ちにくい」と指摘する.

続けて,元京都大学総長の尾池和夫先生(現京都芸術大学長.筆者注:専門は地震学.俳人でもある)の言葉を紹介する.「大学教育は五感すべてを使うもの.遠隔授業は二感(視覚と聴覚)しか使えない」.「大学は,学生が卒業後も新しい技術や事態に対応する力,言い換えれば,生涯学習を可能にする力を養う場」だと.記者は「二感だけの大学に,生涯にわたる学習力を養う余地はあるのだろうか」と指摘する.

大要以上のような内容の記事であった.さて,学生の皆さん,皆さんは遠隔授業に対してどう考えているのであろうか.後期には私も遠隔授業を行うことになっている.どんな経験となるのだろうと半分は興味津々であるのだが,半分はうまくできるのか,今,戦々恐々としている.

2.毎日の散歩―その後

他に用事があったり,雨が降ったりしている日以外は,毎日かかさず散歩をしている.特に気温が高くなると予想された日は,朝の涼しいうちに軽めの散歩も行うようになった.

さて,7月のこの欄に,散歩している中で気付いた3つのことを記したが,その3つのことの後日談である.

まず,河川の改修の件である.岩盤や河床に積もった砂利をきれいに取り除く工事が6月末で終わり,広瀬川は見違えるようにきれいになったことを書いた.しかし,1か月も経たない7月20・21日の大雨で、また広瀬川が増水し,市民会館の裏,赤門の自動車教習所付近より少し上流の砂利が,100メートルほど下流に流されたのである.そこには大きな岩盤が河床から顔を出しているのだが,その一部が再び砂利で覆われてしまった.そして,土できれいに傾斜づけられた法面が洗われ,砂利だらけの段差になってしまった.

今回の増水は昨年ほどでなく,すべてが元の木阿弥、という状態ではないのだが,なかなか自然も容赦はないものだと実感する.

次に公園の猫の話である.西公園の南の部分の桜ケ丘公園には4匹の猫がいると書いたが,その後の散歩で,少なくとも5匹いることが分かった.私は猫の個体識別などできないので,一度に何匹見えるかで判断しているのだが,ある散歩のとき,一度に5匹見たのであった.以外に多いというのが感想である.先にも書いたように,これ以上増えることは,猫にとっても良いことではないように思うのだが,どうなのだろう.猫に餌を持ってきている人たちはどう思っているのだろう.

最後の話題は,大橋のたもとのごみのことである.8月の初めの散歩で,かなりのごみが撤去されたのが分かった.かなりと書いたのは,一部のごみが,大手町側の土手の上から見えにくいように,橋脚の反対側に積み上げられていたからである.一部のごみが片付けられ,一部のごみが残ってしまった理由は何なのだろう.また,誰がこれを行ったのだろう.どうせなら,すべてのごみを片付けて欲しかったのだが.

そうなっていることに気づいたころ,土手のすぐ下の河川敷に,キャタピラー(無限軌道車)の跡がついていることを見つけた.大橋の下のごみがたくさん散らかっていた辺りにも跡があったので,何らかの工事のためキャタピラー車両が通過するとき,邪魔だとばかりにごみを片付けたり,移動したりしたのかもしれない.

2020年9月10日記