Topics 2023.08.30

海洋観測の歴史を知り、社会の歴史を学ぶ

現在、『観測史上最長』とされる黒潮大蛇行が続いています(図1の青い囲いの部分)。加えて黒潮は、「房総半島沖で列島を離れ、東流する」という、長年、海洋学者が持ち続け、あまたの教科書にも描かれてきた常識的な描像さえ揺るがすような、異常な様相をも見せています(図1の赤い囲いの部分)。

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図1. 気象庁による実況表層水温(50m深;2023年7月15日)*1。黒潮系の暖かい海水が大きく北上し、三陸沖まで達していることが解ります。

『黒潮大蛇行』自体は、決して珍しい現象ではないことが知られています。かつて日本が戦争をしていた昭和十年代にも起こっていて(図2)、さらに遡ると、かのジョン(中濱)万次郎の渡米のきっかけにもなったのではないかという説があります。昭和初期の大蛇行は11年ほど(1934~1945年頃に亘って)続いたとされていますが、当時の観測が必ずしも十分ではなかったことから、『観測史上』からは除外されてしまうことも多いようです。

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図2. 旧海軍水路部の作成による1939年夏季の海況分析図。本州南方沖の黒潮大蛇行の様子が捉えられています。

 

この『戦時期の黒潮大蛇行』は、かつて紀州沖で行われた旧日本海軍の大演習の失敗をきっかけに大幅に強化された観測の結果、明らかになりました。当時は『黒潮の異常』とも形容された、この現象の正式な認知は、明治以降、近代的な海洋観測の導入や普及に尽力した先駆者たちの熱意と、軍事力の強化を図るなか、『もっと海を知らねばならない』と意識を変えた国の方針が出会ったことで生まれた成果でもありました。

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図3. 1938~1941年(左)と1945年1~8月(右)の海洋観測(50m以深までの水温観測データ)の分布。World Ocean Database 2018*2収録のデータを集計。

  

図3は、そのころ北太平洋の北西部で実施された海洋観測の分布を、二つの期間に分けて示したもので、左が日米開戦直後までの4年間、右が大戦末期の8カ月間です。左側の図に含まれる25000点余の大半は日本船が取得したデータで、その多くが、専門の観測船のほか、多数の民間船舶(捕鯨船など)の協力で繰り返し実施された大規模な一斉観測によるものです。それに対し、右側の図に含まれる8600点ほどのデータのほぼすべては、米国船の、MBT(機械式BT)と呼ばれる当時としては最新の水温計測機器によるもので、その点列が沖縄や硫黄島方面に延びていることは、戦地に向かった艦船が航路上で多くのデータを取得していたことを物語っています。同じ時期、左側の図の観測に貢献した日本船の多くは軍に徴用されて戦没しており、日本は戦況の悪化もあって海洋観測どころではなくなっていました。これら二つの図の単純な比較からも、今に残る海洋観測の成果が、社会の歴史に大きく左右された結果であることが解ります。

観測の歴史は、観測技術の歴史でもあります。戦時期の日本には、まだ前述のMBT(船を停めずに効率的に水温データを収集できた)は伝わっていませんでした。にも関わらず、予定した地点で一々停船し、ウィンチで採水器や温度計を下ろして観測を繰り返すという、手間のかかる方法でこれほど多くのデータを得ていたことには、驚きしかありません。その後も世界では多様な海洋観測機器が開発され、色々な目的で使われてきました(図4)。私たちが今日、目にする『海洋温暖化の道のり』も、それらの膨大な観測の集積に外なりません。

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図4. 海洋の水温プロファイルデータの測器種類別の内訳の変遷

(Domingues and Palmer (2015)*3の図に加筆)。

 

このように多種多様な観測機器・方法の変遷の中で蓄積されてきた過去の海洋観測データを見直し、その信頼性を再評価しようとする試みが、現在、国際的な研究者グループの間で進められています*4。昔の観測データの中には、どのような機材・方法で採られたのかが判らないものが多く、そればかりか、観測の主体さえ不明であったり、記録された位置や日時が誤っていたり、といったことも少なくありません。膨大な数のデータの中で、そのようなエラーを正し、個々の実態を明らかにすることは簡単ではありませんが、「今を、これからを知るために、過去を知る」の共通の意識のもと、地道な努力が続けられています。そして、それは必然的に、観測が実施された時代ごとの技術水準や科学的動機、さらには社会情勢を学び直す機会をも、私たちに提供してくれています。

(文責: 海洋物理学分野 木津昭一)

 

【引用文献など】

*1: 気象庁 表層水温・海流実況図

https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaikyou/kaikyou/tile/jp/index_subsanl.html

*2: World Ocean Database

https://www.ncei.noaa.gov/products/world-ocean-database 

*3: Domingues, C., and M. Palmer (2015): The IQuOD initiative: towards an International Quality controlled Ocean Database. CLIVAR Exchanges No. 67, Vol. 19, No. 2, Sep 2015.

*4: International Quality-controlled Ocean Database (IQuOD)

https://www.iquod.org/

 

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